星の座(Sternenzet)

ー碁の生誕から星の価値観ー

                               高野圭介



 煌めく星屑
2003年の紅白歌合戦に突如として現れた平井堅と阪本九.

バックの夜空にちりばめた星屑・Stardust から流れてくるこの歌
「見上げてご覧 夜の星を・・」

見る間に、煌めく星屑が碁笥の中に納まっていき、一個ずつ息づいてくる.

 碁の祖型
何千年、いや何万年もの昔のこと、盤上遊技の盤の登場である。

天空を模したか、地盤を形づくったか、とにかく盤が創られた。
そして煌めく一握りの星が星の座・Sternenzert にぱっとばら撒かれたら
壮絶なまでの美しさが盤上のちりばめられた碁石になり、活を得て蠢いた。

曲折があって
碁の祖型が生まれ、碁が創作されていった。
やがて、囲碁という名の下に手談が繰り広げられているのを知る。


エリ−ジウムから
聖なる乙女が 


さあ、そんな星の秘密・星屑の魔力にそっと近づこう。

星の王子様がバオバブの木で作った碁盤を地上に運んでくれたものか、
星の彼方に父のおわしますエリ−ジウムから聖なる乙女が
煌めく星屑をもたらしたものか、

思うだけでも楽しいじゃないか。

 中国の国技
星のお伽の世界のもたらした碁がチベットで打たれていた頃は
17路の碁盤に多くの石がまず星に置かれて打ち合っていた。
(cf:安永一著『幻の源流を訪ねて・・・碁の発掘』p.130.)

やがてヒマラヤから中国秘境へ,あるいはシルクロードを通って
(cf:大室幹雄著『囲碁の民話学』p.11.)

はたまた、古代中国の山西省他随所で創作されたとも・・・
(cf:李百玉著:碁吉会編『醍碁味』「囲碁起源堯都説」p.156.)

仙人が悠久の時間を楽しみ、
三国史の関羽帝に愛され、
多くの皇帝や武将の愛顧となり、中国の国技として普及していた。



 元から明へ
当初は19路盤の隅の星に白黒2子ずつ置きあって打ち始められていた。

ところがである。

フビライの元の時代となり、焚書の刑に遭ったのか、
地震の前にネズミがいなくなるように、
忽然と碁自体が社会から消えて無くなってしまった。

時経て、元が亡び明となり、改めて碁の登場である。
明の太祖朱元璋はことのほか碁を愛し、碁は瞬く間に中国を席巻した。

星は忌避される時代
日本でもまた、右に倣えと、自由に打つ碁となっていた。
そして、小目全盛を迎えていた。

つまり、対抗の位置の目外し、高目は研究され尽くしたが、
星『三々』は鬼門として扱われ、『五の五』など見向きもされず、
どちらかというと星は忌避される時代が続いた。

『新布石法』 

ところが、昭和になって忽然と星打ちの復活である。
呉清源は『平均における星の優位』と題して、
囲棋革命『新布石法』を提唱し、
星が日本棋壇に躍り出た。


曰く
「星はそれ自体で隅を打ち切っていると同時に、
限定された地域としては隅を少しも打って居ないことになる。
即ち敵の石が『三々』に来れば地でなくなるから、
星は隅を打っていないとも言えるわけで、
このことは隅に対して星が偏っていない証拠である。

因みに『三々』は隅の地域を固定しているが、その堅固な偏りのために、
他の石との平均を保ちにくい意味があって、この点星に劣る。

また『五の五』は隅に偏っていませんが、
星から遠いので、隅を打っている感じが鈍い。
でも、隅に制限を与えていることは明らかである。」

盤上は星一辺党
流行とは面白いもので、ごく昨今では二連星・三連星はおろか、
四連星までも登場し、盤上は星一辺党に近い繁盛ぶりである。

それが証拠に星の定石しか知らない有段者が大勢居るではないか。
今気がついたが、かく申す私もいつの間にか星を愛用している。

思うに、星・Sternen は囲碁の核心から周辺を見え隠れしながら
永の年月を駆けめぐっている。
人類の英知は感性と知性を結集して盤上に星を磨き上げるのである。

 句集『星』・・寸山
星の魔力に魅せられたのは棋友・北島寸山先生もそうだった。
句集『星』をものにして、この句集を更なる励みとして、俳壇に
いつまでも光輝いて欲しいと念じられている姿が眼に浮かぶ。

山国は星飛び易し二階宿    寸山

碁きちの囲碁賛歌
私は毎年暮れになると「歓喜に寄せて」と第九を謳う。
いつもこのシラ−の詩を碁きちの囲碁賛歌と聞きながら。

♪♪♪ 幾百万の人々よ、互いに抱き合おう。
この口づけを全世界に与えよう。
兄弟たちよ、星空・ Sternenzert の彼方には、
愛する父が必ずや住みたまう ♪♪♪♪