俺の中で生きろ!


                                     高野圭介


 昔、と言っても40年ほど前の話である。

 強烈な衝撃に見舞われたこと。

それは人のシャレコウベをバリバリ食べる場面に直面したときのことだ。
「俺の中で生きろ」と言って・・・・。

 戦争には戦うメンバーは軍隊。
乱の後、人民を和ませて、平和な世界を取り戻す役割は宣撫班。
この二つの連係プレーが要る。
ただし、宣撫班といえども、匪賊化してゲリラ作戦を展開してくる一団には、
武器を取って敢然と立ち向かう。
 宣撫班の構成は中野学校出身、軍隊出身、それに準じた教育を受けた者達であった。
 
 敗戦後そのメンバーが一堂に会して「興晋会」というグループを結成した。
メンバーには辻政信、木下サーカスの団長・木下某を初め、
松山雅英、瀬戸山魁ほか ン十名がいて、
鬼畜米英の支配から日本を守ろうという高邁な思想に結ばれていた。
 
 その中の一人、松山雅英は兵庫は龍野に在って、
独創的な釉薬・孔雀釉を開発し、陶芸の在野作家「孔雀焼」家元となった。
私の軟式テニスのコーチとしてお世話になったのは、
孔雀釉が生まれた昭和23年前後の頃であった。

 彼はかって北支の太原で日本の宣撫班の工作に身を挺していた。
さて、同じ飯を喰うていた松山・瀬戸山の2人は梁山泊よろしく、
義兄弟の契りに結ばれていたようである。

 年降り、松山大人は胃潰瘍から容態改まり、火葬場での出来事である。

 真っ赤な骨を箸で拾う行事が一巡済んだとき、
瀬戸山大人がつかつかと横たわる遺骨に近づいて、
「おい、松山!これからは俺の中で生きろ!」と言いざま、
まだ火に燃えるような頭骸骨を手でべきべきと千切って、
バリバリ食べかけた。

 しばらくは深い沈黙に包まれていた。
居合した私は脳天をがーんとやられて、目の前が真っ白になった。
きっと、それは私だけではなっかっただろう。