「 まさに老いんとするか」

ーわが敗戦の弁ー

                           高野圭介


 過日、将碁友の会で、今村俊也九段の指導碁を受けた。
三子局である。
「しっかり打って、勝てぬまでも一泡吹かせん」と
意気込んで臨んだものだ。
●42手目、グイ!と中にノビキッタとき
「素晴らしい一手」とメッセージが入ってきた。
観戦兼立会いの前田亮先生は
「この辺り、今村先生も{参った}と言っていた」と述懐される。
いやが上にも厚く厚く打ち進める。好調!と思ったけれど、
●57が堅すぎて、後れを取った。

弱い石はただ一つ。上辺を活きたら、後はヨセと、
●70手に白地の中に手をつけた。普通は「3*4」ツケのところ。
●82手でポン抜きの予定だった。
ところが、ここでちょっとええ格好が始まった。
●88手でポン抜いておけばいいものを、何をか思いけん。
強い白にツケて、コラセて、先手で治まろうなどとは。

まさに独善流の始まりで、勢いよくピシャとツケた。
単にウチスギというものではない。
ああ、これで一巻の終わり!である。
でも、本人は未だ気が付かない。
コウになったらと、コウ材探しに懸命である。
ハッ!と見たら、コウどころか、
黒はスポンッと二個を抜かれて、びっくり。
すぐ「エライコトヲシテシマイマシタ」とメッセージを入れた。
あと、我を失い、碁を失い、higgledy-piggledy(無茶苦茶)。
取って置きのコウ材も打ってしまっては、ヤケクソ!
世にも無惨な物語。

ふと我に返り、それでも一矢報いんと、気を取り直し、
●120手の勝負手をぐいとオス。
前田先生はこれが「凄い手で、迫力ありました」と評。
今村先生が「凄い!」と叫んでいました。と、後で聞いた。
●120が奏功!白の大石を召し捕って、意気軒昂、
いい気なもので、生気が蘇った。
ただ、●127では128からアテルのが正解。
ともあれ、「●やや良し」と評がある。

 最後の敗着は●166手。このポカを167にツイでおけば
私らの仲間内では逆転?
この碁でも勝負になっているかも知れないが
よくよく検討してみると、白は巧妙で、
攻め合いになり、お陀仏の可能性も出てきた。
やはり最初のウチスギが哀しいと、ものを言っている。

その夜、永遠の青春の書『三太郎の日記』阿部次郎著を紐解いた。
彷徨の部に「まさに老いんとするか」が眼に飛び込んできた。
明治の前時代的と笑うなかれ、
蓋し、清新壮烈の趣味こそ囲碁なるを。

「ああ、時は春、日はいまだ暁なるに、年若くして何ぞ老者
の態度を学ばんとするや。(中略)
何ぞ人生の泉に屈みて清新壮烈の趣味を掬せざる、
塵中に没頭して自ずから足れりとする現実の奴隷よ、
何ぞ汝が胸裏の虚偽を刺して鮮血の
淋漓として迸りきたる痛快の心情にさめざる。
眼には涙痕、口には微笑、勇邁の精神を鼓して
久遠の思慕をたどる丈夫児の態度は
我いずれのところにかこれを見んや。」




 三子  高野圭介
   今村俊也九段

168手以下略
白中押し勝ち