碁の鑑賞

ー至福の時は残さず消え去るー

                              高野圭介

 碁の何が面白い?
「碁は面白いね」

「誰れがこんな凄いのを考えついたのだろうね」

「打って面白いし、見てても面白い。時間を忘れるほど楽しい」

「うん、碁の何が面白いって、思ってみたことがある?」


橋本宇太郎先生

「私が一番の碁キチ」



「1992.春(すざら碁仙出版記念大会)を赤穂大会を貴和荘で催したとき、
ご招待をして橋本宇太郎先生が来られて、言われていたなぁ・・

宇太郎先生の言葉
「みなさんは碁キチと言われていますが、
きっと、私が一番碁が好きで、一番の碁キチでしょう」
と。

面白会話 
「へー、碁が面白うてたまらんのは一級か初段辺りかと思っていた。

「だって、石を取ったり取られたり、一寸先が分からず、どきどきしながら、
観戦者に「言うなよ」と口を塞いで没頭できるんだから」

「いや、高段者になるほど面白いんじゃないか」

「そうじゃない。苦しいんだよ。たぶん」

「でも、初心者は本当の碁の妙味など分からないよ」

「何を言うとるんじゃ!強さ弱さに関係なく、いつでもどこでも楽しいんじゃないか」

「碁は[四つ目殺し]から覚えるんじゃが、初めから本当に面白い?」

「ほいじゃ、妙味なんて分かるかな?」

ルンペンの野宿 
「だって、ルンペンの野宿でも、
初めは土管に新聞紙を敷いて休むのから始めるんだって。
土管は雨風を、新聞紙一枚はすばらしい保温になるのを知って、
一人前のルンペンが生まれる。それからがたいへんなのだが」
「いちどルンペンをやると、止められない!」・・・だって。

棋力に応じての理解   
「でも、[野球が好きじゃ]と言うても、見るのか、するのか。
また相撲が好き、と言っても同じだよ」
「碁は少しも知らないのは鑑賞なんて、猫に小判」
「見る、つまり鑑賞も棋力に応じて理解の深さが違う」

実線の臨場感 
「そう。[争い碁(新聞の棋戦など)に名局無し]と言うじゃない。
気合いが凄いんだよ。棋譜から気合いが伝わってくる」

「実際対局してると、実戦心理もあれば迸る気合いというか、
威圧感などがひしひしと身体に感じるのに、棋譜だけではやっぱり違う。
涌きいづる発想と、怒涛のヨミに寒気がするほど
凄いエネルギーが迸るのを肌で感じなければ無理だよ」

「そうだよ、棋譜から?生じゃないのに?やっぱり違うよ・・
その場に居合わせるのとは・・臨場感がない」

「その臨場感を伝えるのが観戦記者」

魅力の桃源郷
「棋譜も棋譜だが、同じものでもその人の力相応に鑑賞出来るものだ。
哲学・宗教などは自分の経験なり知恵しか分からないのと同じように」

「それはそれでとても素晴らしいこと。でなければ、
われわれアマチュアは救われない。
どんな棋力の人でも、碁というものがたまらぬ
魅力の桃源郷
にさまようことが出来る。嬉しいことだ」
面白いもんは面白い 
 「そんな難しいことを言わなくても、面白いもんは面白いんじゃ」

「面白うないと言うんなら、つまらん碁を見せようというのが、間違っている」

「鑑賞に値しない碁って、あるものね」

「鑑賞?と言うと、碁は芸術?スポーツ?福祉の三つの内、どれ?」

「そのどれかなぁ。だって、芸術のジャンルに勝負事はないよ」

「じゃーどのジャンルかなぁ」

「身体を使うので無くても、頭のスポーツってこと?」

「でも、面白おかしく、高齢の手慰みだけという福祉だけじゃ、ねぇ」

碁に浸かる・・親しむ   
「碁に浸かる・・親しむ・・没頭する・・至福の時。

「湯船に浸かってどんどんいい湯を流していく豪勢さ,モーツアルトを
聞きながら食事する豊かさ、ゴルフの後の一杯のビール、
その時を我々はどんなに大切にしていることか」

悠久の時の流れ
碁も打つのもよし、鑑賞するのも、評を下すのも、
悠久の時の流れに身をまかしながら、刻一刻が惜しまず流れ去り、
消え失せ無に帰するものが、なんとすばらしい心の疼きに
全身を浸してくれることなのだろう。

時は飛び去るとのみ心得るべからず}(正法眼蔵)