後ろ向きと前向き
                                    高野圭介


 今朝方、夢を見た。
 だだっ広い草原に馬を駆っているのである。

ウランバートルのナーダムに来て、
たった今、昼食に羊のスープの後、鷹の舞を舞って、騎乗の人となった。
モンゴルの草原に巨大な「大本営」の建物を横に見て、駆け抜ける。

 そうだ・・・モンゴルで「大本営」というのは「競馬の本部」のことだった・・・
その「大本営」がどんどん小さくなっていく。
それをじーっと見ていたのはどうも横向きに乗っていたのか、あるいは
馬のしっぽが大きく揺れていたから、多分後ろ向きだったのか、
どうしても、前を向いて乗っていたのではなかった。

ここで夢は覚めた。

 駆けてきた光景を確認しながら駆けていたが
 じゃあ、どこ向いて駆けていたのだろう。

 思うに、今朝から良い天気だと言いながら、何が起きるか分からない。
振り返って、昨日のことはあれこれ思い出す。
そして、日を遡るごとに記憶は薄れていく。

過ぎ去ったことは見えるから安心だし、視界の中にある。
ボートを漕ぐとき、航跡だけははっきり見えているのに似ている。

 歴史がそうだ。目に見えるものは過去と現在のみ。
未来はいつも筋書きのないドラマ。
明日の設計図などあくまで、予定は予定だ。

私が中学生だった頃
島田先生という英語の教師がいた。
先生は教室で点呼を取った後、まず質問。
「今日は何日じゃ」
「ハイ、15日です」
「何でや」
「昨日、14日だったからです」
「そうやな」

「明日16日だから」と返事するのは
「チガウで!」と一喝を喰うたものだ。



 実は「碁は詰め物である」と言われる。
 詰め碁を解くのはなかなか難しい。
実戦では詰め碁の最終の形を作りながら構想を描き、石は絡んで打ち進める。
これもたいへんだ。

 碁の一着一着は未来への布石である。
つまり、過去をヨミながら、見えない世界へ橋頭堡を築いていくのだ。

 後ろ向きはいろいろ見えるから、何となく安心感があり、保守的とも言われようが、
前向きは見えない荒野への一歩だから、進歩的とでも言うのだろうか。

 だから、過去を分析し、未来への仮説を立てて、確信に満ちて前進する。

碁の場合、これを「ヨミの裏付け」という。
ヨミにはどのような落ち度、抜け穴があるかも知れない。
林海峯九段は「石橋をたたいても渡らない」と言われている。
だから盤中の石のたたずまいを分析し、あとの変化を見通した
「ヨミ込みのある石」は強靱だ。

 ここに人生設計の場合、歴史と哲学と数学が支えていくと言われていたのが、
この歳になって、なるほどと思うのである。