碁のためには 厭わせぬ

                                   高野圭介

 碁の仲間が4人、第一第三火曜日に碁を打つ。
でも ロートルだからいつ四散してしまうかも知れない。
そこで「一散会」と呼ぶことになった。

 常連・85歳三木正翁とのある日の会話である。

「近々眼の手術をしますので・・・」
「へー、悪かったのですか?何で?」
「いや、最近負けが混んできまして、医者に行ったら、眼が悪いと・・・」
「そう、そりゃ眼が出来なかったら石は生きられへんもんな」
「白内障で、手術は右を先にして、2,3日置いて左も・・・」
「眼球にピンポン球みたいな透明な球を入れるんでしょう」
「そう、あとは 1.2 くらいにはっきり見えるんですって・・・・・」
(そうなればシメタものだぞ!とは喉元で噛み砕いた・・・・)
あるとき
「この頃、いつピッキングに遭うやも知れないから、木刀を用意してるんです。」
「不法侵入の奴を一刀のもとに・・・」
「へー、相手は若手で、屈強ですぞ。逆に・・・」
「そこなんです。取り上げられて、ばっさりやられる!」
「危ないじゃないですか」
「一発にやられて、お終い!それがいいんです。潮時を待ってます」
「その一発が、とどめにならなかったら、痛いだけで・・・」
「ふむ・・・」

「パソコンで碁を打ちたいが、出来るかなぁ」
「いいけど、他のことを考えないで、碁だけにされたら・・・」
程経ずして
「碁のソフトとも入って、いつでも打てるようになったが、
せめてワ−プロで会話が出来ないと、今ワープロ稽古中。
いざの時、間に合わないので、碁はもうちょっと先に」
「それが余分のこと・・と言ったのに・・・」

 私は主客転倒する徒然草の落馬の話を想起した。


 榊 久雄さんは阪本清士さんが母校関西学院や
地元、宝塚で囲碁の青少年の指導に挺身されている
様子を見、聞きして、感動された。
そのうちに
若干でもそのお手伝いは出来ぬものかと、
高槻から宝塚へ引っ越して来られた。

 現代版囲碁孟母三遷というべきか。


山崎の田舎に、前野琴石次郎吉という人がいた。
碁敵・三木元三郎に二子の手合いであったから、
妻子も家業もそっち除けで、
追いつき追い越せと、浪速に遊び、
明治36年春、泉喜一郎師に教えを乞うた。
一年有余の後、帰郷し、対局した。
勝った夜「カツレツにて乾杯!」と日記にある。

4線の石に、2線から打つのを
「下からのボーシ」と呼ぶ・・発案者。


 一昔前、大井萬兵衛という翁がいた。
働いてお金を儲けたこともなく、山の木を売って生活するだけの
翁の囲碁三昧人生は104歳で天命を全うされた。
なんでも碁の他には
 魚釣りと酒が好きで、歳と共に疲れが出始めた。
「酒は石が伸びてきて碁にとても良いんじゃ。しかし、
魚釣りは疲れてあと碁が打てんようになってきたので、止めた」と。
囲碁精進一途の翁は99歳の白寿記念に橋本昌二九段に
五子を敷いて和局を打たれた。

102歳の時、「碁の道を忘れてしもた」と言いながら、
盤に向かって石を握ったら、ありありと碁が蘇った。

碁を打つためになら少々のことは厭わない方の多いこと!
 碁が無かったら、どれほど無味乾燥な余生になっただろう。
碁がどれほど人生を彩ってくれただろう。