無心で打つ

                           高野圭介

  かって、囲碁訪中団で天津市を訪れた。
朝食の席で橋本宇太郎先生との会話である。

 私が「昨日北京で、もう一つ這うて出切るのが定石のとろこを
三本這うのが嫌で、いざ戦わんと、短気を出してすぐ出切ったのですが、
やられました。どうも、無心でかからないと駄目でした」と言えば、
「そりゃ、無心はいけません。やはり『勝つ』という心構えがないと。
私は棋院の皆様方にいつも言っています」と諭された。

 おかげで帰るときは二対二の打ち分けまでになったのだが、
確かに相手に打ち勝つ気合いが大切である。

 さて『炎の坂田血風録』をものにした棋士・坂田栄男の告白である。
「1963年、43才の時、私は史上初、本因坊・名人になったんだが、
大苦戦でね、もうダメだと思った絶体絶命の
ピンチを救ってくれた本がある。
 『名人上手集』という本に家門の名誉をかけて戦う大勝負に
選手が実に正々堂々潔く勝負に臨んでいるんだ。
まあ、改めて無欲になることの大切さという、
平凡なことを学んだんですよ」と。

  宇太郎先生のお話には「逆も又真なり」という逆説が多い。
両先生は全く逆のことを言っておられるようだが、
両先生のお話はきっと一つことに相違ない。

達人の無心はどうも私の無心とは違うものらしい。
何がどう違うかは分からないが、全然別のもののようだ。
張り詰めた中で達人が必死に何かを掴もうとするとき、
研ぎ澄まされて、きっと無心になっているのだろう。
一つの事を極めた人はすべての事が見えてくる。
ずいと見透かして見えるようだ。

老子は、なすがまま、ありのままの自然を説いて
『老子29章』にこう言っている。
「勝とうとすれば負け、取ろうとすれば失う・・・これが深い真実なのだ。
頑張る一方の者がいれば、柔らかく受け流す者もいる。
上にのっかかるのがうまいのと、いつも落っこちがちのもいる。
極端を強行しない。特に極端を避けるのだ・・・
特に人間の高慢な奢りやとめどない欲をね」(抄)

 かって三島の龍澤寺を訪ねて、座禅に身を置いたことがある。
数多の墓標には名もない。ただ一字が刻んであるのみ。その一群。
「無・仏・法・僧・和・空・茶・夢・麻・火・光・喝・憧・命・・・・」と。
ここには「無」を一字に集約して、無限の広がりを語っているではないか。

「無心」と墨痕鮮やかに宮本直毅九段の色紙が
私の書斎に掲げてある。