大震災下の碁

                                  高野圭介

 身辺を整理していると、時に面白いことに出くわす。

 ところで、整理とは「きちんと分かり易いように仕舞い直す」こととばかり思っていた。
しかしそれは大間違いで、「ホカス」ことであった。
今頃気が付くとは遅い!と笑われそうだが、
大事にして保管していたということは、その代わり思わぬ拾い物をする。
 便箋の紙切れに書いてある覚え書きも出てきて、独りでにやっと笑った。

    面白きこともなき世をおもしろく  高杉晋作

 世の中に人の来るのは嬉しけれ、とはいうもののお前ではなし  内田百聞

嬉しい便りも見付かった。

「未曾有の大震災、深くお見舞い申し上げます。
昨日、数百回の電話ののち、漸く奥様に電話が通じ、ご無事とのことを承り、
安心して腰が抜けたような感じです。
 当方、何らかのお役に立つのなら、直ちに出発すべき所ですが、
若くもない小生が行ってはかえって手足惑いかも知れぬと思い直し、
心ならずもテレビニュースにかじりついている有様です。
 なお、高野さんが配布して下さった小生の書物の代金は、この際、
すべて高野さんに寄付いたしますので、囲碁関係の誰かで、家を失った人か、
万一亡くなられた人でもいられたら、そちら関係にお役立て下さい。
少額ながら文人棋士、貧者の一灯として・・・」


鴨川市・中山典之

さいわいにも私の碁の身辺、関西棋院プロの先生らに
 家屋の問題は殆どだが、犠牲者は一人も無かった。
中山典之先生のご厚意を無にしないため、
神戸市の避難所に碁盤を贈ったりした。

  1月17日は特異日といえば、出雲大社の神在祭で、
神が出雲に集まる留守の中で、やはり「激震」という特異日でもある。
あの1991年の湾岸戦争も、1994年の ロス・ノーリッジの地震もこの日だ。

 私と言えば、まだ真っ暗だが太極拳へ行くため、靴を履いていたとき
6時前、正しくは  5時46分、ガッチャンと地震。
外の屋根が真っ白で「雪かな」と思った。
瓦が軒並みに剥がされてめくり上がって白に見えたのだ。
東の長田方面の空が空襲時のように真っ赤だ。
停電していたので、車のラジオで、ニュースを聞く。
明るくなりかけて、家の中の状態がつかめかけた。
ぐっしゃぐしゃで足の踏み場もない。

 最初に見舞いの電話が入ったのは広島の海生耕治さんからだった。
それにしても、三男・雅彰の結婚式は何という幸運であったろう。
15日の挙式であったから、二日前だったらどうなっていただろう。
一日違いでも遠来の客は死ぬ思いをしていたかも。
などと思うと身震いがしてきた。

 夜、またサンフランシスコのマークから電話がある。
「アメリカで、神戸のニュースがどんどん入ってくるので、
そのすざましさにビックリしている。来日は九月まで延期する」と。

第一突堤へ行ったが、波止場は2b位のクレパスでパニックだ。
私の荷のある神戸港は大丈夫だろうか・・・
中国は唐騰さんから買い入れていた墨玉・岫玉の碁石と
景泰藍(日本の七宝焼)の碁笥は港に無事着いているかしら。
倉庫は半分水に浸かりかけの状態で危機一髪だった。

 友人に掛けた電話が三日目にふと繋がった。
 
  「生きてるよ」地震三日目の寒電話    圭介

 朝日の阪神大地震特集句会に投句したこの句が
金子兜太先生の眼に留まり、入選したのも懐かしい。

 大勢の碁友からも次々「碁を打ちたい」と言ってきた。
 折りしも電気が通じた。懸念していた機器も大丈夫だ。
なんと GO-NET がつながり、動く。一局打つ。
あとは、負けても勝っても嬉しい。楽しい。
碁を打つことの歓びがひしひしと身に沁みる。

しばらくは碁もテニスも自粛の時だった。また、その気になれない。
その5月、意を決し、誘われるままに2ヶ月間の中国囲碁旅行に出掛けた。
これが中国囲碁界との深い交流の端緒となった。