そないせんといてぇなぁ No.V オランダの辿った苦難の道・・・小国・日本を考える そないせんといてぇなぁ(U) そないせんといてぇなぁ(T) 高野圭介 |
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無理難題 | 現状の日本が、オランダが列強から無理難題をふっかけられて 辿った苦しみによく似ている、ということを聞いたことがあります。 第2次世界大戦の敗戦をまだまだ引きずっているのです。 骨抜きになって、弱い、弱い國なのかな? いったい どういうことなんだろう? |
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日本が「ジャップ」と言われるうように、 「ダッチ・アカウント」「ダッチ・ロール」というような オランダに対し、惨めたらしい蔑視の言葉が残っています。 オランダは黄金時代も経験しましたが、 たいていは「そないせんといてえなぁ」と、 無抵抗の抵抗で生き続けているという見方もあるのです。 |
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日本では九州くらいの広さにあたる面積に、 オランダ人総勢約1千6百万人が住んでいます。 出来るだけ短く纏めてみましたが、 詳しくは検索で「オランダの歴史」を見て下さい。 現今、中国・台湾・韓国・北朝鮮・ロシアなどから 無理難題をふっかけられている日本を占う上に、 オランダの歴史を見てみましょう。 |
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日本とオランダ | 日本とオランダの関係は江戸の鎖国時代、唯一、 オランダだけ開港した形で、長崎にオランダ屋敷が置かれた。 日本でいやほど採れた金の価格が銀と余り変わらなかったので、 オランダは何倍かの儲けを独り占めにした。 でも、蘭学のお陰で、世界の思想、文物が深く静かに 日本の中枢部を刺激して、江戸文化の熟成に寄与支し、 いよいよの、明治の文明開化に備えることが出来た。 これも、一つのバーター取引と思えば価値のあることであった。 その間、オランダと日本との交流で、お互いに得たものは大きい。
『明治という国家』司馬遼太郎著より |
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紀元前時代 | 紀元前時代、現在はオランダと呼ばれる地方には ゲルマン民族とケルト民族が住んでいました。 |
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外来勢力の波 | 5世紀初期頃までライン川南部は、ローマ帝国支配下の地域でした。 中世を通じて、オランダは多くの封建自治体から成っていましたが、 カール五世帝(1500-1558)のもとに、他の「低い国」 (現在のベルギーとルクセンブルグ)と共に統合され 聖ローマ帝国に組込まれました。 |
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オランダの歴史は たび重なる外来勢力の波に翻弄される歴史でありました。 1500年から80年間、スペインからの束縛を逃れる戦いに暮れ、 1581年、オランダ国民はようやく自分の国家を持つようになります。 その意味で外来勢力との関係・対応の仕方が この国の歴史をみていく重要な視点となります。 |
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黄金時代 東インド会社 |
17世紀初めまでに, オランダはヨーロッバで最も進んだ経済をもつ国になっていて、 17世紀は「黄金時代」と呼ばれています。 |
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オランダ東インド会社(VOC)により、共和国の繁栄 の時代を迎えました。 東南アジアへの航海および貿易を管理するため、 1602年に設立されたオランダ東インド会社は、 世界最大の商業組織で、世界初の多国 籍企業ともいえましょう。 オランダ東インド会社は、 現在のインドネシア、日本、台湾、スリランカおよび 南アフリカに拠点を置き、アフリカおよびアジア沿岸で操業していました。 |
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オランダの全盛期は17世紀であるが,17世紀後半になると イギリス・フランスから強烈な挑戦を受けるようになりました。 |
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小国の悲哀 |
1652年からほぼ10年おきに英蘭戦争を繰り返しただけでなく, 1672年にはルイ14世治下のフランスに国土深く侵入され, たび重なる戦乱で大きな損失をこうむりました。 こうして小国オランダの繁栄の基盤が崩されて, ヨーロッパはイギリス・フランスを軸とする列強抗争の時代に入り, オランダはこれら強国のはざまで その歴史を大きく左右されるようになったのです。 |
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中立の立場も 何のその やられるときは 占領されて、 なお凋落へ |
第一次世界大戦 (1914−1918)において、 オランダは中立の立場を維持しました。 厳正中立の方針は、 第二次世界大戦まで引き継がれましたが、 1940年5月、ドイ ツに侵略され、その後5年間占領されました。 |
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オランダは、 第二次世界大戦までは多くの植民地を保有していましたが、 1945年以降、その多くが早々と独立していきました。 インドネシアやカリブ海のスリナムと蘭領アンティル諸島などです。 |