紫煙のT・P・O

ーーある日の・・・禁煙への道ーー



                                                    高野圭介

喫煙同罪の宣言
煙草事始め

中学一年のとき、バス通学の全員が松原の河原に降ろされた。
終戦ほど近い頃、一年坊主は横に整列させられて、
「この頃たるんどる・・気合いを入れる!」と無差別にビンタを食らう。
そこで煙草を口にさせられ、
「お前らは今、煙草を吸うた。解ったか!以後気を付けい!」と、
同罪の宣言をさせられた。

立派な愛煙家 
ああ、煙草の虜

しかしこれを機に、硬派のシンボル・バンカラに憧れてか、
下敷きで扇ぎながら、気分悪くなり、胃から戻しながら吸うたものだ。

間もなく終戦、ニコチンで指が黄色くなっているのを眺めながら、
当時のコロナから Lucky Strike, Chesterfield などの洋モクを漁ったりした。

テニスの試合のとき、木陰でラリー(Rouley ) とかいうのを
マドロスパイプで呑んだのがやたら美味しかったし、
1952年秋、富士山の頂上で吸うたピースの缶入り両切り煙草が
甘いニコチンが馥郁と最高に旨かったのを今も忘れられない。

煙草の横車 
 そもそも、禁煙ヘのプロローグはアメリカでのこと。

1973年の秋、私は Golden Bridge のすぐ北、Tamalpyas 山の麓に
Redwood の森の生活が始まろうとしていた。

碁友 tweet こと Mark Okada のお世話で Lloyd Saxton 博士の家に
Home Stay する最初の夜のこと、 Welcome Party を催していただいた。

上座下座は日本とは別で、BGM はシューベルトが流れ、
照明はローソクの明かり程度の重厚な雰囲気である。
Nancy Saxton が丹誠込めて 5時間かけて焼き上げたという
焼き肉に舌鼓を打っているとき、灰皿がないので所望した。

散会した後、
「味が変わるから食事の時は煙草は止そうよ」と、Mark に諭された。

でも、それからというものは、
私のテーブルにも、ベットにもいつも 灰皿が置いてあった。

 Lloyd 博士の葉巻
ビックリ ビックリ!

一ヶ月は瞬く間に過ぎ、帰国前夜に、
とあるフランス料理のレストランに三々五々友が集まって
Farewell Party を催していただいた。

待合いの束の間のこと、
煙草を喫まないはずのLloyd 博士が
そこにあった葉巻を二本取って一本を私に差しだし、
彼は一本を自分でおいしそうにくゆらしながら喫んでしまった。

自分が恥ずかしく
ショック!ショック!

オドロイタのはこの私。
いったい煙草をどう思っていたのだろう。

不躾と言おうか、T・P・O を心得もせず、この一ヶ月間、朝から晩まで、
所構わず時構わずスパスパ煙草を口にしていた
自分が恥ずかしくなってきた。

 ニコチンの禁断症状
ニコチンを断つ

帰国後、心に誓い
一日二箱も喫うていたのに、禁煙一週間目、
初めての碁会が朝日十傑戦西播大会であった。

何か支障があってはとこっそり飴をポケットに忍ばせていた。
おかげでニコチンの禁断症状もなく、幸い十傑戦第一位を獲得し、
煙草への決別の大きな自信になったものだ。

碁吉会の禁煙 
禁煙へ

禁煙はなかなかの大仕事。吸いたくなったら、
「今はロイド博士のように、吸わないでおこう」と自分に言い続けて
いつの間にか身体が紫煙の忌避状態になっていた。

こうして煙草との縁は切れた。もう30年になる。

1990年碁吉会が呱々の声を上げたとき、
まず決めたのは「禁煙」だった。


オーロラのような紫煙
禁煙が続く

ところが、あれだけおいしかった煙草だ。

Lloyd 博士式に煙草との自在な取り組み方が欲しいと思うようになり、
今は「止めている」とは言わないで、ただ「今喫まないだけ」でいようとした。

しかし哀しいかな、あのオーロラのような紫煙はどうにも喉を通らなくなっていた。