「ありゃ、違った!隣へ打った」 四半世紀前・日中平和友好条約締結の中国で 2003年8月12日 高野圭介 |
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「業余囲棋団的比賽紀行 |
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神戸で壮行会 | 1978年のこと、神戸新聞創刊80周年記念と デイリースポーツ創刊30周年を記念して、 兵庫県から日中アマ囲碁友好使節団が中国を訪問した。 神戸で壮行会が催されたが、私は「切り賃」のことを聞いた。 その説明をされたのが家田隆二先生で、最初の出会いとなった。 帰国してから「業余囲棋団的比賽紀行」として、メモを纏めた。 |
日中平和友好条約 | 1978年8月12日は、新しい日中間の友好親善のための 日中平和友好条約が調印されたその日に当たった。 空港では聶衛平、王汝南、華以剛、陳嘉鋭らの出迎えを受けて 北京空港に降り立ったのである。 |
朋友・唐 騰 | その後2週間、来る日も来る日も友好万歳に酔うて、大歓待! 人民大会堂で、方毅副主席に宮廷料理に招かれたり、 西湖湖畔では今をときめく孔祥明の「荒城の月」を聴いた。 また、新しい朋友・唐騰さんと北京で交友が始まり、 李戸さん、史衛忠さんは天津での出会いがあった。 |
団長・三木良一 | 団長・三木良一(神戸新聞社当時専務・後の社長)と、 他に神戸新聞社からは中平邦彦、安福幹夫の両氏。 また関西棋院からは最高顧問・橋本宇太郎ご夫妻、水田羨博、 東野弘昭、本田満彦の四棋士。そしてアマ14名が随行した。 総員22名の2週間に亘る異国囲碁行脚となったのであるが、 この豪華な碁の旅に、私も貴重な体験を得た。 |
温故知新 | はや、まるまる25年が経過し、世相も移り変わり、 棋壇も次のジェネレーションに移行してしまった。 同行者の中にはすでに四名の方々が他界され、 仲間と会えば温故知新、まさに今昔の感がある。 |
「ありゃ、違った!隣へ打った」 |
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審判官と記録係 | 国際大会とあっては、日中の国旗を結んで立ててあって、 審判官と記録係と茶菓子の付いた対局席でのこと、 私は第一着を右上三三に打ち、そして当時流行の第三着を 右下向かい小目に占めて、得意の布陣だった。 ところがである。 何か不吉な予感がしてよく見れば、星にあるではないか。 「うーーん、ちと勝手が違う」と、動揺したが、仕方ない。 そしてこの碁を失った。 |
瀬越先生 | この話を宇太郎先生に話したら、 「今から50年前のことです。私が呉清源さんと初めて打ったとき、 私も高野さんと同じことをやりましてね。 そして第三着は瀬越先生と一緒でして、瀬越先生の場合は 目外しに小ケイマにかかったところ、スミから受けられまして、おかしいな? とよく見れば、高目に小ケイマにカカっていたわけでして・・」と ほほっと笑われました。 |
”フン目”のこと |
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奥さま (鈴子夫人のこと) |
北京・天津と二敗し、本田満彦六段(当時)と同じく、少々参っていた。 「奥さん(鈴子夫人のこと)、明日は大切なので、ちょっとサインを 送ってもらえないでしょうか? 一間トビはこう。コスミはこうと。」 「分かりました。高野さん。でも、もし、痒くなって、 違う手の動きになったら・・どうしましょう」 「それは困りましたな、どうしましょう」 |
宇太郎先生 |
そこで宇太郎先生曰く 「それは名案ですよ。家内は皆さんよりは少し強いですから、 よく頼んでおきなさい。 実は”フン目”というのがあって、プロの中でも ”フン”というだけで、フン目違うと言われています。 アマの方はそれくらいしないとねぇ。」 |
「あほらしゅうて・あほらしゅうて」 |
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一勝一敗二持碁 | 上海で公式手合いが済んで、三木良一団長は破顔される。 「あほらしゅうて・あほらしゅうて、かなわんな。 今まで北京・天津・杭州と一勝一敗一持碁で来まして、 もう 気楽に打っていました。」 途中 「棋勢がおかしくなって、もう投げよう、次に投げようと思っても、 いつの間にか、また好転していて、いけるぞ・・と悦び、 打ち継いでいたら、またおかしゅうなっていて、 終いにダメまで打ってしまって、作ってみたら、 ナナナ・・なんと持碁。もうあほらしゅうて、 私のザル碁がよう遊ばれているみたいなもんで・・・ 結果は一勝一敗二持碁でっせ。」 聞けば、相手は 邱 百瑞 といい、 囲碁学校の校長先生だった。 |