「天才宇太郎・達人の眼力」

                          高野圭介拝

 南アルプス南端・前黒法師岳への登り口に寸又峡がある。
入梅の晴れ間に寸又峡温泉に投宿し、早朝五時前、裏の外森山へ登った。
急坂の登山道に黒くて太った動物が眼の先にぬっと現れた。
熊かと思ったら身を翻して山奥に姿を消した。それは日本鹿だった。
一周して里に下りた頃、美人が一人やって来る。
「ひょっとして狐さん?」といぶかったがやはり人だった。

 宿に帰り、朝日新聞(2003.06.11刊行)を広げる。大きな活字が眼に飛び込んだ。

「羽生名人の強さ分析:瞬時に把握・次の手直感」と。

 曰く「わずか3秒で盤面を記憶し、一瞬のうちに次の手を絞り込む」そして
「カメラのフォーカスが合うように、ほんの二,三手に絞り(現実にはこれも
パスに近いのだろうが)、更に良さそうな一手からヨミを深める」

 瞬間、私は橋本宇太郎先生の「着点を絞り込む話」に想いを巡らした。
「先生、次々生まれる局面で、次の一手は何カ所ぐらい読まれるのですか」と
聞いたのに、先生は「はい、一点です。」

 天才宇太郎の研ぎ澄ました眼力には迷いがない。
「どこが良いのだろう」という言葉は無さそうでした。
ただ、ヨミが深まってくると、手順、キカシ、気合いないしは手抜きなど、
別の視点で、着点が変わってくるというようなことはあるでしょうが。

 宇太郎先生は人をカツグのがお好きでして、中国でのある日
「高野さん、ザル碁というのはね、中国でアゲハマをあの碁笥の
ザルに返すでしょう。あれから来たのですよ」と言われました。

これを神戸新聞の中平邦彦さんに話すと、
「カツガレているんだよ」と指摘されたりしていたものですから、
先生の温かい眼が併せ持つこの「一点に絞る眼力」
の話もさすがと感心はしながらも、
「そうだろうけれども」と、この貴重なお言葉も
どこか担がれているようにも聞こえていたとは
宇太郎先生に申し訳なく思っています。

 かといって、私にはそのフォーカスを絞る真似事のひとつも出来ないし、
「この碁、打つところがない」と言いながら、盤中眼を皿にしている
自分の姿を想像しながら硫黄泉の湯舟に浸かっていました。