” わたすげ “ 高野圭介 組織外の在野で生き抜く人たちの心意気は健気である。 曰く在家仏教。(出家に対して)私の母・高野智恵子もその一人であった。 松本富治、稲村美智子らの仲間が数人いて、仏法を語り合い、法悦に涙を流し、 寺に籠もって法を説く僧侶より遙かに宗教心の厚い生き方だった。 セルを着て病ありとも見えぬかな 高浜虚子 大胆や夫が見立てしセルの柄 真鍋蟻十 初夏のセルという着物の大流行の頃、虚子の句である。 呉服屋をしていた女主人・母は横見をした隙にセルの反物がするすると、 お客の鞄の中に吸い込まれていくのを 「悪いものを見てしまった。気の毒だったなぁ あの人は」 と言っていたのが、まだ耳の底に残っている。 騙された話には騙さねばならない人が可哀想とも言っていた。 根っからの妙好人そのものだった。 曰く伝統工芸作家。 日本の芸術団体の日展・院展とかの公官の権威には目もくれず、 ひたすら「自分の感性の迸った芸(味の良い)そのものを創作する」という 自由という自分の生きざまに拠って立つたち・・陶磁器の世界ならば、たとえば 益子焼の浜田庄司がバーナード・リーチらと遊び、京都の河合寛次郎らと 民芸運動を起こした・・・その在野作家集団。 あるいは 龍野窯の松山雅英は辰砂でない赤の釉薬を創作して、孔雀焼と命名。 孤高を守り、就職を「サラリーマンに成り下がる」と喝破、 組織に甘んじないで、独立独歩を信条としていた。 日本の経営コンサルタント業・ドリームインキューベーターの 堀 紘一は「サラリーマンなんか今すぐやめなさい。 自分の道は自分で切り開きなさい」と、言っている。 在野精神というか、何ものにも囚われない碁の在り方を模索し、つまり 棋院の支部活動でもないし、一匹狼で賭け碁で流浪するのでもない。 形無き形、音なき音を求める碁友のオアシス的な役割を果たしながら 義務はないけれど、責任を遂行しているのが「碁吉会」と思っている。 不思議なことに、瓜二つの生き方をしているグループを昨今紹介された。 もの言う翔年「ユリウス」こと、マモル氏肝煎りの「いきいき塾」である。 まだ髄の穴から覗いているだけだが、おそらく「壺中の天地」じゃないか。 碁吉会のいずみの会大阪道場を想像しているが、いちど足を運びたい。 曰く、在野拳とでも言うべきか。太極拳の我が師・佐藤靖子も然り。 靖子師は本筋の太極拳を追うて20年、自分自身には寸分の妥協をも許さない。 しかしピラミッド組織の中の太極拳活動には甘んじず、 「太極拳は本来個人の心と体の健康のためにあるもので、 権威のためにあるものでない」として、 段位とか師範代とかの権威には常に一線を画して背を向ける。 太極拳に求めるものは套路:taolu(道順)でもなければ、資格でもない。 次の二点。 @真っ直ぐに姿勢を正して動作を行うこと。 A腹式呼吸で手を出すときに息を吐くこと。 これは本来の太極拳の在り方とはいうものの、無視され勝ちだ。 それだけに主眼の違いからすれば、ある意味では異端とも言えるか。 閑話休題 異端といえばマルチン・ルーテルを想起する。 中世、腐りきったローマ教皇に教典の解釈に異を唱え、 ラテン語以外のドイツ語に翻訳・出版し、 命を賭けてキリスト教の粛正・改革に立ち上がった。かくて ゆわゆる異端・プロテスタントはやがて新教として認知された。 靖子師は「権威の専攻には断固として立ち向かう」気概を内蔵されている。 師は常に生き方を問う。 「人の痛みを自分の痛みとし」、 「いかに生きるか」は「いかに死ぬか」であり、 「年老いても若いときの生きざまのまま老いる」が持論である。 師が「わたすげ」という瓦版 No.01.を出版した。 わずか A4一枚には同様の論が所狭しと展開されている。 主宰・佐藤靖子さんが夢に温めていた瓦版だ。 私はコラム欄を受け持つことになった。 題して「春の光」(光は望みだ) 「春を持ち寄る会というのがある。自然のものでも身辺のもでもいい、 自分の「春」を持ち寄って良き日を過ごそうというのだ。 京都での話だが評判も良く、続いていて、もう何年にもなる。 春から初夏にかけて「わたすげ」の季節だ。 靖子さんの笑顔が良い。靖子さんの周辺は 春の光があますところなく漂うている。」 (高野記) 注:「わたすげ」はカヤツリグサ科の多年草。深山の湿原に群生。 初夏高さ40pの穂先の上に、白色の綿帽子のような果実を結ぶ。 スズメノケヤリ。(歳時記より) |