結城 聡九段 第25期 鶴聖戦
 
優勝祝賀会

2003年5月30日

                                              高野圭介


結城聡鶴聖が誕生した。この上もなく嬉しい。
いつかその成長が挫折しかけたかに見えたが幾多の苦難を乗り越えての
鮮やかな鶴聖戦優勝である。

本人のお慶びもさることながら、お父君・敏郎さまはまたひとしおであろう。
祝賀会の席上で胸に込み上げてくるのを抑えながら、お慶びを一面にご披露された。

 

結城 聡 鶴聖と

 

菊池康郎さんと

 

奈良 采美会のみなさんに囲まれて

 

結城鶴聖の父君敏郎様と





結城鶴聖と列車時刻表

碁吉会の始まり・・・前夜

                                            高野圭介

浅からぬ碁縁 
思い返すと、結城聡先生との浅からぬ碁縁は20年近く前に遡る。

1984年に聡先生が入段されたのが小学校6年のとき。お父君敏郎さまから
お話があった。「聡がプロになったが、社会勉強が何もできてないから、
いろいろ指導してやって欲しい」そして「神戸新聞文化部の方にも相談したが、
高野さんに頼まれるのがいいでしょうと言われたので、お願いです」という話だった。

「いったい社会勉強とは何ですか」と聞くと
「例えば靴の紐も結べないとか、何でもです」と言われるので、
一ヶ年間だけとお出で願うことにした。

全国列車時刻表    
翌1985年、中学に進学されるのと同時にお父君に連れられて私宅に
来られたときは言葉少ない少年で、
二階の十二畳の座敷に床と碁盤一面を置いて休んでもらったものだ。

後は独りで汽車・バスと乗り継いで来られたため、いつも手にされていたのは
「携帯全国列車時刻表」だった。


 平素より先生に「ご趣味は?」とお尋ねすると
「列車時刻表」と答えられると聞いていたが。
この時からすでに始まっていたのだ。

今では時刻表がコンピューターのように
頭脳にしっかり組み込まれているのだろう。


 ここは後日の挿入だが、
2004年の囲碁将棋チャンネルで、正月の放映で、
結城鶴聖のトークで、いい味を出された。

「今は鉄道マニアで、年4回は時刻表を買わないと落ち着かない」と。
(「囲碁関西2004/5月号・Form 東京」より)

「今なお新手」 
当時私が主宰していた守拙会で指導碁などお願いしたりしたが、
着手の早いこと。

定石破りの新手もいっぱいあったことなど記憶に新しい。
その一つが今も私の愛用している星の変化で、
定石書にはケイマするのを一間にトブ 「今なお新手」で、
人呼んで「高野流」となっている。

東レの瀬田寮碁会 
翌年、私がエクセーヌの碁盤を 東レと共同特許を取ったことなどで、
東レ鰍ニ親交があったことから、
1986年1月31日に東レの瀬田寮で一泊の東レの新年碁会が催され、
その時 聡先生を招聘してご指導を受けた。名簿はもうない。

しかし
お父君敏郎さまも来られたし、特筆すべきは聡先生の親友、
坂井秀至プロのお父君孝至さまも参加されていた。


と言うのも、
同じ参加者の中に、当時神戸市江口汽船の江口武雄さまがおられて、
お父君からすでに
ご子息秀至さまの将来を医学か碁か の択一か両立かなど
話しておられたと言われていたから。


日生の沖、
頭島は橋本荘で

「碁キチ大集合」 


碁吉会はこれが機縁で、1986年4月12日〜13日(土・日)と日生の沖、
頭島は橋本荘で「碁キチ大集合」と銘打って碁会を催した。

参加者は東レの方も見えて、総勢23名。
遠くは和歌山の竹内総さま、当時兵庫県女流名人・伊丹市の佐野久仁子さま
も見えたが、今の碁吉会では井原嗣治さまの名前が見える。

これが1990年の碁吉憲章の制定となり、今の碁吉会
と繋がるのである。

九段への通過点

新人王を獲得


ある年、結城聡先生が五段に昇段された。お祝いに先生を招聘したが、
私にこっそり耳打ちされた。
「今日はとても嬉しいのですが、あと六段八段は九段への通過点ですから、
タイトルを取るまでもう無視して下さい」と。

その後、新人王を獲得され、お祝いにお宅へ伺ったとき、
鮮やかな詰碁の解説を聞いた。

そして今回の鶴聖戦優勝と更なる飛翔となったわけだ。




2004年9月25日
六甲山中で、すれ違いざまに
結城敏郎先生によく似た人の横顔を見た。
「結城先生」と声を掛けると、飛び上がってびっくりされた。

それは、先日、関西棋院で聡先生にお会いしたとき、
「父は今は碁もですが、山歩きです」と言われた記憶があって、
かすかに「ひょっとしてお会いするかも」という
予感があったのでしょうか。
全く、奇遇でした。