播磨棋観


昭和初期の播磨の棋拍たち
                                               高野圭介



前列左から
深川2段・橋本紋2段・藤原2段・清水2段・岩城2段・吉川2段

後列左から
森本2段・児島初段・矢内3段・若木初段

上田利一
姫路におしゃれな碁きちが一人いた。
その名を上田利一。

大先輩であったが、私と囲碁観がよく似ていて、話も合い、
私たち家族共々ご一緒に八丈島に囲碁行脚したり、
心から懇意にさせていただいたものです。

私が碁吉会の主宰者ということ、関西棋院宍粟支部長、などから
私と打つと、口癖のように、「鼎の軽重を問う!」などと言われたものだ。

上田さんはある日のこと、関西棋院兵庫県地方本部にて、
碁の対局中に斃れ、そのまま不帰の客となられた。

氏の遺言に、「棋書の蔵書一切を高野に贈る」と言うことであったので、
膨大な蔵書が贈られてきた。

その中の一冊に『播磨棋観』があった。



『播磨棋観』

『播磨棋観』という棋書は、元々、播磨囲碁研究会があって、
その記念事業として編纂されたと、はしがきに識してある。

熱戦譜が84局記載されていて、
井上因碩・清水偵一・辻 紋次・橋本紋次郎・森本熊次・・・らの
播磨の代表棋客の名前が見える。


奥付に、

「庚午・青葉茂るさつき・・白鷺の下 矢内吟石編す」とある。

1930年(昭和5年)5月刊行の棋書であった。
思うに、昭和5年5月というと、5.5=碁碁の良き年月ではないか。
なるほど、
巧みな演出が隠されていた。

棋譜を調べる
つぶさに棋譜を調べると、
当時の棋力・2段は現在の7段、初段.1級は6段に相当するか。

因みに、段のインフレはある程度必然で、苦にしてはいけない。
恰も、緩やかなインフレは経済の好況を示すもの、に等しい。

また、棋譜には懇切丁寧な評がある。
ただ、座標の組み替えがたいへんなので、すべて省略した。

橋本紋次郎
橋本紋次郎

戦後、兵庫県の囲碁界に君臨した棋伯。

現在のアマ大御所・西村 修が高校生時代。この新進気鋭を
棋戦の決勝戦で阻止し、巨大な足跡を残したが、
翌年、遂に破られ、西村時代の到来を見た。


本譜で見る限り、相手を寄せ付けない手堅い棋風。流石と思わせた。

清水偵一





清水偵一

播磨新宮村で薬局を生業としていた。
その新宮村井野原では、明治40年に前田陳爾棋士が生まれた。

清水さんについて、前野四郎さんが述べている。
cf:「宍粟の碁」より

新宮の清水さんは当時、私の父・前野琴石と互先の手合いであった。
清水さんは碁を打つよりも、自分がプロの先生に指導を受けた碁を並べて、
ながながと説明したり、感想を述べられ、父がまたそれを熱心に聞いていた姿は
今も私のまぶたに残っている。

ある時、清水さんが
「私の方にもあなた(四郎さんのこと)ぐらいで、強い子が出来た。
あなたも稽古して強くないなさい」と。

その子供が前田陳爾であったことは当時私は知るよしもなかった。

因みに、近隣の作用町には、木谷実怪童丸が生まれていたのである。






播磨棋観の特選・熱戦譜


井上因碩プロ   vs   2子  辻 紋次2段

矢内吟石3段   vs   先番 本條謙次初段

岩城退蔵2段  vs  先番 橋本紋次郎初段

清水禎吉2段   vs  先番 高林松次 1級