第一章 中国三大エポック (02) 英雄豪傑の碁 高野圭介 |
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中国の囲碁史 | 碁はゲ-ムを成立する与件の数が少ないために、 表面にあらわれる現象はかえって複雑になる意味がある。 中国ではこのような玄妙の碁を純粋な頭脳ゲームとして、 高尚な盤上遊戯の地位を占めるようになってきたのである。 碁に没入すると、誰がどのようにして創作したかと感嘆し、 神業のように思えるほど深奥の棋理に支えられたゲ-ムであることが分かる。 中国の有史以来、 比較的史実の記述されている梁の武帝(AD 6 世紀 )のとき 囲碁は既に改良され尽くし、完成されていて、 中国の囲碁史を見ると理解できる。 |
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AD3世紀 玄徳と 諸葛亮孔明 |
『三国史演義』(AD3世紀頃の話)にある記述。 「劉備玄徳が諸葛亮孔明の出馬をうながすために、その草庵を訪ねたとき、 畑を耕していた農夫が歌を唱っていたが、いかにも意味ありげだったので、 誰が作った歌かと玄徳が聞いたところ、それが孔明の作だったという。 蒼天ハ円蓋ノ如ク 陸地ハ棋局ニ似タリ 世人ハ黒白ヲ分カチ 往来シテ栄辱ヲ争ウ 碁にことよせて、移り行く天下のありさまを歌っているが、 琴棋書画が君子の四芸とされ、必須教養課目であった当時のことだから、 孔明先生も、当然、相当な打ち手であったに相違ない。 |
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AD3世紀 曹 操と 関羽 |
玄徳、孔明の宿敵、曹操の方は囲碁の名手で、 山子道、王九真、郭凱らと三国時代の本因坊を争ったほどである」と。 《文献16》 当時漢末には、他に謝安とかゞ名を馳せたし、 関羽は毒矢に射られて肩の骨まで削るという荒治療を受けながら 碁を打っていたという。 |
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AD4世紀 支公と王担之 |
支公(支道林・支遁)は老荘家(AD4世紀の人)で、25才で出家し、 威厳があたりを払って高い気品を示していた。 王担之(中郎・文度)はこの二人の間にはだいぶ深い接触があったらしいが、 先輩の支公が王の才覚を認めなかったせいか仲が悪く、 共に名だたる碁の名手であったのに、対局は無かったようだ。 むしろ、王担之は支公を詭弁家と決めつけ、支公は王担之を 「あれは何者かと問えば、塵芥を入れた袋だ」と評したと言う。《文献37》 |
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AD 6世紀 梁の武帝 |
後漢から三国時代、更に六朝では碁は隆盛を極め、 梁の武帝(AD 6 世紀 )のとき最盛期を迎えている。 因みに香港の蝋人形の館に武帝の打碁の姿がある。 四芸の中に囲碁ありぬ 古き諸人夢を得て 奥山海辺端座せば 中山典之 -囲碁いろは歌- |
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AD13世紀 文天祥 |
AD13世紀の頃、 宋の文天祥と劉沐は、ちょうど日本の真田父子のような義臣であった。 その話を。 この二人は江生省吉水の人で幼友達であり、碁仇だった。 「少なきより与に狎れ昵み究め(幼少の時からお互いに遠慮が無く) 日夜を忘れ以て常となす」というような間柄だった。 宋は元に滅ぼされたが、滅亡の際に最も活躍したのは文官・文天祥であた。 元の大軍が首都に迫った時、 彼は勤王の兵を挙げ、首都防衛の第一線についたが、 運悪く捉えられ、獄中にあるうちに宋は滅んでしまった。 劉沐も文天祥に応じ、一軍の将として戦い、子息もろとも玉砕して果てた。 文天祥は元朝への仕官の勧めをことわり続け、決然として宋朝に殉じた。 彼が獄中で詠んだ詩は、幕末の勤王の志士達の愛唱歌となった。 「正気の歌」である。 注:これに因んで日本の軍隊で、「正気の歌」は軍歌以上に一世を風靡した。 |
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AD14世紀 朱元璋 |
元から明へ、時代は変わった。琴棋書画も様変わりした。 |
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AD18世紀 黄月天 |
今から 200年前、18世紀の頃のこと中国の国力充実し、 文化が最も栄えた天下太平の乾隆時代を迎えた。 碁も貴族富豪が保護奨励した。 黄月天という当代随一の打ち手が出、 少し後に施定庵と氾西屏の二人が輩出した。 その後、清代になり国力が衰退し、同じくして碁界も衰えていったのである。 |