(05) 文化革命の悲惨

中国三大トピック

 文化大革命のこの囲碁受難時代は中国棋檀のエア・ポケットのようで、
希望を大きく抉り取られた悲しむべき悲惨な10年(1966年~1976年)であった。

                               高野圭介


聶衛平は当時のおぞましい状況をこう語っている。

 文化大革命の激流に押し流されて、世界はまるごと猛り狂った渦に巻き込まれた・・・。
 その頃の私は弟の継波と競って学習し、1966年には少年組に居ながら、
当時のトップ棋士、陳祖徳、呉淞笙らに二子の手合いだった。

1966年、運動が始まって程なく私は生涯忘れられない苦難の年月を迎えることになった。
当時私も[紅衛兵]に参加し、革命的情熱で胸を満たして『四旧』(古い思想、文化、風俗、習慣)
を打ち破り、すべての「牛鬼蛇亀」(反動分子の蔑称)を一掃するための「革命」行動にも参加した。

しかし運動がエスカレ-トするにつれて、私の革命的情熱は相次ぐ打撃で萎んでしまった。


 ある日、私は一枚の「指令」に突然こう書かれているのを目にした。

「囲碁は『四旧』であり、封建帝王、将軍宰相、士大夫、そしてブルジョアジ-の汚い旦那方の
『黒いしろもの』(黒は紅の反対で、反動、反革命の意)である・・・。断固取り締まるべし」


 頭から冷水を浴びせさせられたようなこの「指令」で、私の心は萎えた。

 しかし、どうしても分からなかった。陳毅将軍があれほど奨励し、配慮を加え、
毛沢東主席も周恩来も、揃って支持している囲碁が、なぜアッという間に
「封建主義、資本主義、修正主義」の『黒いしろもの』い変わってしまったのだろうか。

私の唖然とした出来ごと。囲碁を育ててくれた雷溥華老先生が「牛鬼蛇亀」に仕立てあげられ、
訳も分からないうちに亡くなった。身内の父方母方の小父さんが次々「黒い一味」として捕まった。
陳毅将軍さえも突然「造反派」に吊るし上げられたりした。


 続いて、私が最も恐れていたことがついに起きた。

 家が襲われ、両親が捕まった。頭を「陰陽頭」(半分だけ髪を残す)に剃られた父は
「黒い一味・聶春栄」と書かれた大きな板を胸に掛けられて、
数人の「造反派」にどなられながら、腰をまげ頭を下げて、ベランダに立たされた。

顔面は苦痛に痙攣し、大豆のような汗がぽたぽたとコンクリ-トの上に落ちた。
この胸傷む光景を私は生涯忘れることは出来ない・・・。

 両親が「黒い一味」なれば、私も「紅五類」から「犬ころ」になる。
 幸い、北京棋社はなぜか、「造反派」でなく、私の「逃避港」になった。しかし、
間もなく「革命の鉄箒」はこの優雅な小園も閉鎖させた。

 大
変な中を、私は「上山下郷」(農村へ行って、貧農の再教育を受ける)に絶望の中を出掛けた。
ここでは「広い大地で紅い心を鍛えさせる」ために「お前は一級低い人間だ」と囁かれ続けた。

 ともあれ、北京棋社の陳祖徳ほか殆どの棋士も、工員となっていた。


結局、10年後の1976年、四人組は失脚し、いまわしい文化革命は集結した。
私はようやく棋士になったが、もし、あの「文化大革命」がすべてをぶち壊していなかったら、
私は数学研究に没頭していたであろう。《文献38》


唐騰もやはり文化革命で、太行山脈の奥にある来源県運送隊にお派遣され、
八年間トラックの修理の仕事に従事させられた。


 15才のとき、兄と学んだ囲碁の勉強のために学んだ日本語が将来大いに役に立ち、
日本に留学し、日本で博士号を取得し帰国した。

1990年、北京での尭舜杯に準優勝したアマの碁きちである。《文献39》

彼はかく言う私:高野圭介の無二の親友である。


金同実清の皇族の後裔で、愛新覚羅家族の傍系である。
少年時代、聶衛平、王如南、華以剛、曹志林らと激しく研修した仲だ。


 鄭州での囲碁大会の帰りに文化革命に遭遇した。
あと、八年間囲碁を離れて、工員として働いた。《文献40》


邱継紅は文化革命の最中に生まれた。

名前の「継紅」は「紅衛兵を継げ」との願いの名であったようだ。

日本の「新人王」に当たる「新秀盃」決勝戦に進出したが、どうしたことか、新秀盃戦は廃止となった。
今はプロ五段。名人戦のリ-グ入りを果たした経験もある。若手新進気鋭である。《文献41》

邱継紅プロと私2人で一ヶ月も掛けて中国一周行脚したものだ。