第二章 日本の碁伝来と敷衍 (07) 伝来と広がり 高野圭介 |
||
日本国家統一 |
日本への碁の伝来はかなり古く、大和朝廷による日本国家統一の 時代にまで(AD 300年代)遡るようである。 このことは中国の碁と年代的にはそう変わらないことを意味している。 さすれば一応日本の過去の遺産から見る必要がある。 |
|
吉備真備 |
大化の改新(AD 645年)以降は遣随使・遣唐使等を通じて文化の交流、 なかんずく囲碁の交流もあり、 かなり日本国内でも碁が流行していたのではなかろうか。 遣唐使・吉備真備が帰朝した時(AD 735年)が囲碁の日本への渡来の時と 安藤如意は言っていて、これが定説となっている。《文献45》 |
|
碁は朝鮮から |
しかし、小松武樹は大宝律令(AD 701)に碁の記載のあることから 碁は朝鮮から伝わったのではないか、と発表している。 すなわち「応神天皇( AD 270 ~310 )の時代に『千字文』『論語』など 色々な文化が渡来し始め、四世紀末、任那に日本府を置いた。 百年ばかりの任那での武将達は、軍務の間に碁や将棋を覚えて、 日本に伝えた」と言う説である。《文献46》 |
|
碁の上手 |
阿倍仲麿呂のことは伝説的であっても遣唐使に碁師が 加えられていたことは事実のようだ。 8世紀(平安朝)には長屋王、聖武天皇らが碁を打っていた。 が、特権階級の僧侶も加わってきた。 9世紀の碁の上手に遣唐使の伴勝雄・紀夏井の名が見られる。 |
|
官邸から 武士へ |
10世紀ごろは仁明天皇、醍醐天皇から公家貴族の社会へ広まり、 寛蓮が出て「碁聖大徳」の称を頂いている。 その後、若干の衰退興亡を見ながら公家武士僧侶の中へ浸透していった。 13世紀になって、始めて武士が囲碁に興じていた記述が現れる。 公家に仕えていた武士はかなり早くから囲碁を見聞する機会に恵まれていた。 武士階級の囲碁愛好者を指折れば、奥州の太守・清原貞衝、源義家、 源頼朝、佐々木盛綱と挙げられるが、不思議なことに、あれだけ 一世を風靡し貴族公家に近いところにいた平家に碁の伝承が見当たらず、 粗野と思われていた坂東武者に多いというのだ。《文献45》 |
|
囲碁神社 |
九州に「囲碁神社」というお宮がある。その話を松村緑から聞いた。 「ある時、大分から熊本、そして福岡と山中を車で走っていた。 時が止まるような鬱蒼とした森を抜け、山里にさしかかろうとしたその時、 忽然と現れたのが『囲碁神社』である。 そこには仙人が三人で碁を囲んでいた絵図があった。 そしてその謂れが石碑に刻んであった・・・と言う。 1998年の秋、碁吉会で湯布院大会を催した。 そのとき、囲碁神社へ参詣した。 |
|
碁石が浜 |
ちなみに「碁石が浜」という海岸線が三陸海岸のあって、 那智黒のような真っ黒の石が敷き詰められている。 |