第二章  日本の碁伝来と敷衍


(08) 武将と碁

                                   高野圭介


日本の武将


 戦国の武将も大いに碁に親しんだ。
しかし、徳川幕府以前の現存する打碁譜はわずか二十数局に過ぎない。

そのうち、武士のものとしては武田信玄と高阪弾正の棋譜と
真田昌幸・信幸父子の真偽不明の対局譜の二局のみである。

黒田如水軒と石田三成の打碁も有名である。

伊達政宗も碁にのめり込んだ。

本因坊算砂
本因坊算砂は当時抜群の上手であったが、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の
三人に仕えるという政治的手腕も優れていた。
いかつい武将達を前に堂々の論陣を張った。

 曰く「碁は己を守り彼を攻めるものであるから大局を掴むこと、
これがなにより肝要でございます。事は戦いであっても、
最後の目的は天下を治めるにあり、智仁勇の三徳こそ碁の本質にほかなりません。

兵は機なり、権なり、権機は詐謀にあらず、
道に従って変化し、勢に拠って通じるものです。
攻めるようにみせて攻めず、取るようにみせて取らず・・・」と。《文献47》


日本独特の

自由に打つ碁


 中国の碁の盛んなりし頃と前後して、日本は元禄時代に
白黒二個づつを四隅に置いて始める中国の碁は廃された。

日本独特の第一着から自由に打つ碁が発達し、
やがて名人道策が道策流を打ち立て、日本の碁を確立集大成していた。

つまり、序盤からいきなり喧嘩で始まる力碁の戦法を広い布石の打ち方に改めた。
こゝに棋理が玄妙無辺に広がると共に格段の進歩を遂げたのである。

兵法の如し


 服部因淑は『置碁自在』の中で「形を味わい、この変化を悟るときは、
例えてみると兵法の如く・・・」と軍法の学習にも役立つという見解を繰り返し述べている。

 戦国の武将達は数ある碁の功徳を、大将は部下に碁を打たせてその賢愚や得失を知る。
戦術として「攻めるは最大の防御なり」という鉄則が支配しているのもうけただろうし、
戦場にて永陣の時は碁を打って気を養うことが出来る。などあったようだ。

 呉 清源  
気を養うといえば、呉清源は「相撲のあの息詰まるような一瞬の緊張をもって迎える
立ち会いの呼吸には、何かしら碁の対局の心理に似たところがあるようにも感じる。

立ち会いの一瞬の勝負は無念夢想の裡に、奇手が連発して局を結ぶのではないか。
神授の一手が物を言うのであろう、経験の総合が輝くのであろう」と言っている。《文献48》


宮本直毅


 同様に「闘争力を養うのに相撲を観る」と宮本直毅九段は言うが、
戦国時代の武将たちが碁を愛したのは、
戦略ゲームとかいう一般の解釈とは別の観点から観れば、
背水の日々をくゞり抜ける気力を涵養するものであったか、

また、鍛え抜いた武力の自信が白黒の世界でも当人の実力を越えた勝率をもたらし、
そのために、更に横好きも昂じたのではないかとも思える。


長水落城哀話


碁の助言などで喧嘩が始まるのはよくあることだが、
碁の為に合戦となり、落城した物語を一つ。

 秀吉が西国攻めに際し、姫路に陣取っていた時のことである。
秀吉は長水城(播磨国山崎)城主・宇野下総守政頼に降伏を勧めた。
政頼は結局、秀吉に随身すべく姫路に出向き、秀吉に面接を乞う。

「翌日登城して、次の間に控えて様子如何にと相侍る。
この時秀吉は、某士と碁を囲み、心を碁局にのみ移して敢えて
政頼には面会いたさざりしこそ口惜しけれ。

目にもの見せて呉んずと言い、将士を引き連れ長水城へと帰りたまひぬ。
秀吉は碁面にのみ心を注ぎ、政頼の立腹して返りしも気付かざりしが
、後にいたりて云々」と。
 かくして、落城哀話に繋がる長水攻めと相成る次第である。《文献49》


細川千仭


 囲碁雑誌『ざる碁』に主筆・細川千仭九段はこう述べている。

「碁は戦いである。戦う者はまず頑強でなければならない。
やせ細った身体で相撲はとれますまい。赤ちゃんおんぶして戦争は出来ますまい。
一つ一つの石がすべて健康であるべきこと・・・碁は地も大切であるが、
石を強くすること、厚く打つことであります。
そしてその厚みを戦争に充分働かせることであります」