第二章 日本の碁伝来と敷衍 (10) 新布石爛漫 高野圭介 |
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近代囲碁へ | 幕末から明治へ。本因坊と方円社の激烈な対立、そして日本棋院創立。 その間、近代囲碁の発展的転換には二つのエポックがあった。 一つは「家元制の廃止」で、もう一つは「新布石論」の研究である。 「家元制の廃止」は明治維新の産物とは言え、開かれた囲碁界となり、 世界の趨勢にまさに適した制度改革だった。 |
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置碁制の難点 | 今は特に昭和初期の「新布石論」に絞って、自由な発想・思想の囲碁を考えたい。 《文献51.52.53》 従来、中国、韓国、日本も昔は 4個ないし17個の置石制の碁であった。 そのために布石が決まってくると言うか、盤が狭くて、力に頼る囲碁であった筈だ。 |
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勢力重視 | それが置石の枷が取り払われ、布石が大きく進歩し、盤が広くなった。 更に1933年、呉清源と木谷実が力を合わせて、 それまでの常識を破った布石の方法を碁界に問うた。 つまり、旧来の三線を重要視する布石に疑問を投げかけ、 四~五線を中心とする勢力重視を主張した。 発表後の対局は両名共に盤上で実践し、 呉清源一位、木谷実二位と、実績を残した。 |
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『囲碁革命・新布石法』 | たちまち、木谷実・呉清源・安永一共著『囲碁革命・新布石法』 同『囲碁革命・実戦新布石』は超ベストセラ-になった。《文献54.55》 呉清源は新布石の三々・星・天元で、1933年、本因坊秀哉に挑戦し、 秀哉は白番 2目を残したが、余りにもの目新しさに度肝を抜いた。 それから 4年後の1937年、秀哉の引退碁に 木谷実が実力で対局者に選ばれて、対局した。 |
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安永 一 | 安永一は同書の序に「高鳴る時代の警鐘」としてこう言っている。 「新布石法が正しければ正しい程、新しき物に対する保守的な慣性がこ の生成を阻もうとする方向に働くことは歴史の証明するところである」と。《文献54》 従来「一に空きスミ、二にシマリ、三にカカリ」が、布石の原点とされ、 礼儀として右上のコモクに打つべし、というのだった。 いわゆる「新布石」である。囲碁の合理を極めた自然な囲碁を追求する 「新布石」は画期的な成果で、現代の囲碁界に 一つの時代を画する創造であった。《文献55》 |
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新布石論 | その鬼門とされた「星・三々・天元」の運用だった。具体的には
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求道の精神 | 木谷・前田の新布石法は「どこから打ち始めて、どういう方針によって打ち進めていけば、 敵よりも優位の地位を占め得るか」というのだった。《文献56》 趙治勲は「従来の布石のなかに不合理や不自然を認めたとき、 呉清源と木谷実の二人の”求道の精神”は「新布石」を創造しなければ いかなかったのでしょう」と言っている。《文献43》 |