第五章   三大エポック

(29)  英雄豪傑の碁

                                   高野圭介

中国の囲碁史
 碁はゲ-ムを成立する与件の数が少ないために、
表面にあらわれる現象はかえって複雑になる意味がある。
中国ではこのような玄妙の碁を純粋な頭脳ゲームとして、
高尚な盤上遊戯の地位を占めるようになってきたのである。


 碁に没入すると、誰がどのようにして創作したかと感嘆し、
神業のように思えるほど深奥の棋理に支えられたゲ-ムであることが分かる。

 中国の有史以来、
比較的史実の記述されている梁の武帝(AD 6 世紀 )のとき
囲碁は既に改良され尽くし、完成されていて、
中国の囲碁史を見ると理解できる。

AD3世紀


玄徳と

諸葛亮孔明





『三国史演義』(AD3世紀頃の話)にある記述。

「劉備玄徳が諸葛亮孔明の出馬をうながすために、その草庵を訪ねたとき、
畑を耕していた農夫が歌を唱っていたが、いかにも意味ありげだったので、
誰が作った歌かと玄徳が聞いたところ、それが孔明の作だったという。

蒼天ハ円蓋ノ如ク  陸地ハ棋局ニ似タリ
世人ハ黒白ヲ分カチ 往来シテ栄辱ヲ争ウ

 碁にことよせて、移り行く天下のありさまを歌っているが、
琴棋書画が君子の四芸とされ、必須教養課目であった当時のことだから、
孔明先生も、当然、相当な打ち手であったに相違ない。


AD3世紀


曹 操と

関羽




玄徳、孔明の宿敵、曹操の方は囲碁の名手で、
山子道、王九真、郭凱らと三国時代の本因坊を争ったほどである」と。
《文献16》

当時漢末には、他に謝安とかゞ名を馳せたし、
関羽は毒矢に射られて肩の骨まで削るという荒治療を受けながら
碁を打っていたという。


AD4世紀


 支公と王担之


支公(支道林・支遁)は老荘家(AD4世紀の人)で、25才で出家し、
威厳があたりを払って高い気品を示していた。

王担之(中郎・文度)はこの二人の間にはだいぶ深い接触があったらしいが、
先輩の支公が王の才覚を認めなかったせいか仲が悪く、
共に名だたる碁の名手であったのに、対局は無かったようだ。

むしろ、王担之は支公を詭弁家と決めつけ、支公は王担之を
「あれは何者かと問えば、塵芥を入れた袋だ」と評したと言う。《文献37》


AD 6世紀


梁の武帝


後漢から三国時代、更に六朝では碁は隆盛を極め、
梁の武帝(AD 6 世紀 )のとき最盛期を迎えている。
因みに香港の蝋人形の館に武帝の打碁の姿がある。

四芸の中に囲碁ありぬ
古き諸人夢を得て
奥山海辺端座せば

中山典之 -囲碁いろは歌-



AD13世紀


文天祥


AD13世紀の頃、
宋の文天祥と劉沐は、ちょうど日本の真田父子のような義臣であった。
その話を。

 この二人は江生省吉水の人で幼友達であり、碁仇だった。
「少なきより与に狎れ昵み究め(幼少の時からお互いに遠慮が無く)
日夜を忘れ以て常となす」というような間柄だった。

 宋は元に滅ぼされたが、滅亡の際に最も活躍したのは文官・文天祥であた。
元の大軍が首都に迫った時、
彼は勤王の兵を挙げ、首都防衛の第一線についたが、
運悪く捉えられ、獄中にあるうちに宋は滅んでしまった。

劉沐も文天祥に応じ、一軍の将として戦い、子息もろとも玉砕して果てた。
文天祥は元朝への仕官の勧めをことわり続け、決然として宋朝に殉じた。

彼が獄中で詠んだ詩は、幕末の勤王の志士達の愛唱歌となった。
「正気の歌」である。

注:これに因んで日本の軍隊で、「正気の歌」は軍歌以上に一世を風靡した。


AD14世紀


朱元璋


 

 

元から明へ、時代は変わった。琴棋書画も様変わりした。


AD18世紀


黄月天


 

今から 200年前、18世紀の頃のこと中国の国力充実し、
文化が最も栄えた天下太平の乾隆時代を迎えた。
碁も貴族富豪が保護奨励した。
黄月天という当代随一の打ち手が出、
少し後に施定庵と氾西屏の二人が輩出した。

 その後、
清代になり国力が衰退し、同じくして碁界も衰えていったのである。