第三章 囲碁の伝播

(17) シッキムの碁
                                                  高野圭介

安永 一 説
途中、シッキムという小国をはじめ、ヒマラヤ山中の国々に
17路の碁が残されていると安永一は言っている。


安永は中国の流れに三つのル-トを想定している。


一つはチベットから長江の流れに沿って東に行った。


二つは四川・大揚子江の支流、嘉陵江や漢江をたよりに北上した。


三つ目はゆわゆるシルクロ-ドから黄河流域へ。


 中国への足がかり  
思うに、

きっと中近東か、その近辺のどこか(メソポタミア辺り)で、
盤上に動くゲームとしての碁の祖型が生じ、
形を整えながら極東へ移行した。

途中、定着したシッキムの碁に注目される。

シッキム州
シッキム州(Sikkim)は、インド北東部のである。
北に広大なチベットが位置する。

ヒマラヤ南麓のネパールブータンのあいだに位置する。
かつてシッキム王国だった歴史的な経緯により、インドに併合された。

インド28州のうち人口最少、面積はゴア州に次いで2番目に小さな州となっている。



シッキム・ルール
 ごく最近のことに話はとぶが、1959年4月2日のこと。

インドの北、ヒマラヤの秘境・シッキム国のソンダップ・ナムギャル皇太子が
17路の碁盤と(シッキム国では竹製の碁石だったという。

実際は日本の石で打たれた)ちょっと変わったルールを日本に持って来て、
伊予本桃市六段と対局した。

彼は「碁をチベットのダライ・ラマから教わった」と言うのだった。《文献22》
 そこで、
シッキム・ル-ルはチベット・ル-ルであったことが分かった。
17路だが、数え方は中国式であった。
《文献23》

チベット・ルール
 チベットの碁はいわゆる中手やウッテガエの時には、ちょうど、
劫の時コウダテするように直接打てないで、一手余所に打つことが要求される。

これは同型反復禁止の便宜的な御都合主義ではなかった。

石は人間の象徴である。死体(死に石)を掘り起こした厳粛な場所(取り跡)を、
すぐ土足で踏み荒らすようなことを禁じていたのである。
宗教的な観念が碁のルールに迄及んでいたと感嘆久しいものがある。《文献14》

チベット起源説


 つまり、現在の碁とはかなり違った碁の思想が支配している。
元来碁のルールには哲学の裏付けがあり、思想を反映して定められているようだ。

 これに推論を加え、
安永一は「囲碁の起源をチベツトに求める」と提唱し、
更に推測を深めている。