第四章 囲碁伝承 (23) 仙人創作説 聖天子が碁を創ったというのは眉唾で、仙人の打ち碁の跡がある。 高野圭介 |
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仙人から学んだ説 | また、夏の国の最後の王・傑の臣・烏曽が創った説がある。 宋の陸象山という文人が「尭・舜の聖人が碁作った」と断言している。 しかし、張継が『康熈庚辰』という書物に「碁は尭が創ったものでなく、 尭が仙人から学んだものである」と言っている。《文献30》 たゞ、張華は、張継が『世本』を基にして書いたというが、 世本たるや中国古代の伝承口碑を収録したものであって、 実証するものはないという説がある。 |
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ベトナム人も | BC 200年頃のこと、『太祖紀注』という書物にこう記してある。 「魏の山子道王、九真(ベトナム)郭凱等囲棋を善くす。 太祖(魏の曹操)皆と埒しく能くす・・・(後略)」 さて、山子道王は時の高手。 それに匹敵する高手にベトナム人がいた、というのが凄い。《文献31》 |
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仙人と囲碁に 関する遺跡 |
臨汾市には「仙人と碁」の緊密な関係を如実に示す資料が現存している。 春秋時代の哲学散文家・荘周が述べている。 「仙人が住んでいたといわれる姑射仙穴風景地区には 仙人と囲碁に関する遺跡が三カ所ある。」すなわち、 1. 南仙穴の十七路盤の石刻図で、観音閣にある 「四仙人が碁を打っているところを見たという石碑」。 2. 宋微駕遊仙穴石碑。 3. 南宋作家・梁任の物語に酷似した鄧半仙穴。 沈香囲碁起源研究より |
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丹朱の墓の 副葬品 |
河北省保定の近くに望都(慶都)という古い町がある。 神話時代から、由緒あるところで『博物誌』にある丹朱の墓城がある。 1953年偶然に古墳の中から一つの石製の17路の碁盤が発見された。 他の副葬品などからAD 200年頃のものと目されている。《文献32》 |
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碁の原型は 『明堂』から |
また、碁の原型は中国の君主が政治を執る場であった『明堂』から とったものであろう、と言う小松田良平説がある。 おそらく、霞が関・永田町とかの、政治の本部を形地取ったようなものかな。 |
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民族の移動と 同じく、東方へ |
殷は当時、世界に冠たる一大文化圏を形成しており、チベット族の羌などは 農耕に適する黄河上流地帯にむかって民族大移動が始まっていた。 それが周民族の祖型であるかどうかは別として、陝西の西方の周民族と交わりながら 、だんだんに北から西へと移行していき、東方の殷文化と接触していった。 |
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安永一の チベット説 |
安永 一は、 このような民族の折衝から殷・周・秦・前漢・後漢の頃、中国からチベットに移動し、 チベットでは古代囲碁を原型の何の変革もなしにそのまゝ伝えられたと推測する。 更に、彼はもう一つ、 イスラエル・バビロニアからチベットへのルートの可能性も示唆している。《文献33》 私はチベットへ行ったことがある。そのとき、 水口藤雄様から、「チベットと碁」の宿題を戴いていたが、 チベットの碁人はこの件には無関心であった。 |