第四章 囲碁伝承 (24) 山西省が聖地?? 高野圭介 |
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六博 | 増川宏一は中国で極端に古い時代に囲碁の起源を求める見解には 異論を唱えている。《文献03》 BC 500 年前後の中国の盤上遊戯は文物のいくばくかの出土や発掘により 最近明らかになってきたことがある。 六博についての新しい発見や実証があるが、 囲碁に関する現物の実証を欠いた文献にのみからの推論だけであるからだ。 六博(いくはく)は正方形の盤に賽子を振って区切られた升目に駒を進める 競争ゲームで、紀元後間もなく衰退して遊ばれなくなったものである。 今ではこの遊戯に関する知識も用語も殆ど分からなくなっているが、 あたかも日本の双六のような遊びであったと推測されている。 |
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六博の棋 | この六博の駒を「棋子」ないし「棋」と呼んでいた。 「棋を弄ぶ」「棋に興じる」というのは六博のことであった。ために、 六博の駒の「棋」と後世に囲碁を意味する「棋」の区別が不明瞭になり、 混同されて囲碁の歴史を非常に古い時代に遡って考えられてきた。《文献36》 仙人は中国西部の奥にある 崑崙山に住むと 言い伝えられている西王母という女神に会いに行くという。 その西王母騒動の事件では、六博の道具をひろげ歌い踊って西王母を祀った。 つまり、仙人はゲーが好きだったようだ。 これを早く言えば、中国に囲碁生成の実証がなかなか難しいということか。 |
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棋子山の棋 | 極く最近【囲碁の発生は山西省】という見出しで神戸新聞に報じられた。 (1980年頃のこと) 「囲碁の発祥地は山西省陵川県だとする新しい学説がこのほど発表された。 研究は山西社会科学院の楊暁国・研究員補佐によるもので、 楊氏の説は陵川県誌に基づく。同誌には黒白の碁石を表す一節が記載されているという。 この史料に従い実地調査を行った楊氏は、考古学などの見地から、 陵川県棋子山を囲碁発祥の地と断定している。 また考古学関係者はこれまでに棋子山で多くの天然石の碁石を発見している。 専門家と学者はこの発見を世界囲碁史上の大発見としている」と。《文献36》 私はこの報道のその後の進展について大いに関心をもって、 北京の友人・唐騰に依頼し、中国棋院に問い合わせたところ 「この程度の資料で囲碁発祥の地と断定するのは早計である」と、 却下したと伝えてきた。 この報道は、なかなか中国が囲碁発祥の物証が見つからない訳で、 発祥の地と言うよりも、少なくとも改良に改良を重ねられた囲碁が、 いよいよ中国で定着してきたことを意味しているものではなかろうか。 |
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太古の人物像 | これら問題の地はそれぞれ人類の移動ル-ト途上にあるのに注目したい。 中国の太古の伝説時代はやはり BC 5,000 年に遡る。 登場する人物と言えば 有巣氏・・・木を植えて、巣を作り、木の実を食うのを教えた。 燵人氏・・・燵石を鑽って火を起こすことを教えた。 伏羲氏・・・網を用いて獣魚を捕まえることを教えた。 神農氏・・・農耕の法を、さらに百草の医薬を創めた。 そして、中国で始めての国家、黄帝が登場し、尭舜と名君が続くのだが、 夏・殷・周と国家らしい姿が見え始めるのも BC 2,000 年になってのことだった。 それでも未だ伝承の域を脱していない。 |
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人類の移動 | さて、人類が東アフリカに出現し、北上していったことに遡ろう。 随所に定着していった筈だ。ここに定着とは食物を狩猟だけでなく、 農耕にも頼りかけたことを意味する。 最も大規模で、定着してしまったのがメソポタミアであったのだろう。 此処に人類最古のメソポタミア文明が開花した。 優れたシュメ-ル人は恐らくン万年も前から農耕を始めていたのではと思う。 一万年も前にはすでに本格的な農耕の段階にあった・・・。 |
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胡の国から | いずれにしても囲碁は中国古代長江ないし黄河文明の宮廷貴族や 道教のゆわゆる仙人の中で熟成されたものではなかろうか。 しかし、中国で囲碁の生成を見たという根拠を明らかに出来ない限りにおいて、 どこからか移行してきたとしか思えない。 それはどこからかは分からないが、西方のどこからかだろうか。 それは多分・・・「胡の国」 |