人格死概念の提唱

 『白血病医のお礼奉公』 正岡徹 著より

                                       高野圭介


死を論じる
人間は生まれるときは皆同じだが、死ぬときは皆違う。

死を論じることは、生きることを論じることだ。

こんなことを聞いても「死」に触れることは滅多とない。
せいぜい碁盤上で、生きた死んだとやりとりする程度。

人格死概念
ライフ大阪囲碁倶楽部で、折に触れ、私は盤上で
正岡医学博士と生き死にのやりとりを楽しんでいますが、
先生の提唱になる「
人格死概念論」に接した。


死の定義
死とは
「生命活動が不可逆的に停止すること」具体的には
心肺停止とか、脳死とか、他にビミョウな論議があって

素人の介入する余地は無さそうなのだが・・・



正岡先生の

living will案


正岡博士の結語的なところを紹介すると、

「一つの条件下において、
認知症などで人格が高度に破壊されたときに、
人格死と定義し、
これを人の死として認めて欲しいという要望である。」

中略・・・


正岡先生のliving will案は以下の通り。

「私は人格死という死を受け入れます。
もし、認知症などで、
私の人格が高度に破壊されたときは、
私の妻または子供の要求によって
人格死判定を行って下さい。
判定後は使用可能な臓器摘出後、
心停止処置をして下さい。」

私はこの崇高な論旨に同感です。

歎異抄
「死」を考えていたら、
歎異抄のあれこれが浮かんできた。

「とても地獄は一定のすみかぞかし」と歎異抄に言う。

死後のこと、
極楽で綺麗なベベや小鳥の鳴き声を聞いて
過ごすだけでは退屈してしまうだろう。

地獄でもいが、煉獄で碁でも打てたら、
なお結構。



更にもう一つの歎異抄の悪人正機説

「善人なおもて往生を遂ぐ、
いわんや悪人においてをや」
という

親鸞の言葉。