「アホの部屋」

                                                         高野圭介



 
「どこでもドアホ」 
2003年、この夏、北海道は紋別に草鹿庸次郎さまを訪ねて
山腹にある横山紀昭さまの丸太小屋で
のんびりのびのびと碁でも打とうということになった。

その横山さまを紹介したHPが「FOREST OF OKHOTSK」である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~abashiri/link7.html

膨大な内容なので、目次をずいと目を通したら、
「どこでもドアホ」というのがあった。
ドアホ・疋田義久さまを中心に、大勢の人が寄って集って書いているらしい。

このオヤジまた書いてるなと今日も読む 窓の霜にもアホと書きつつ

                                   某某らの寄せ句


 「アホの部屋」
なにくそ、コチトラも負けてはないぞ!というのが主題である。

つまり私の部屋には「アホの部屋」という立派な看板が掲げてあって、
部屋の主・アホこそ、かく申す私、高野圭介である。
鴨居に掲げたアホが参ったという話。

守拙 
かって、私は「守拙会」という碁の同好会を結成していた。

そしたら「昭和会」という私も所属していた仲間から
「碁を教えろ!俺らにも好い名前の会を作れ、というご命令があった。
そこで「若愚会」というのを結成した。

ところが「若くて愚かとは何じゃ!もっとええ名前を付けろ」と叱られる始末。
私はひたすら弁解にもならぬ説明一本槍である。

若愚 
曰く「そもそも囲碁には段位がある。中国では囲棋九品(クボン)と称し、
碁の段はランクを表すが、単なる強さでなく、碁の品格だとし、
初段は守拙、二段は若愚、三段は闘力・・・
・・・八段は座照、九段は入神とされている。

「皆さんは守拙より初めから一段高い若愚だ」と伝えた。
敵もさる者引っ掻く者、
「やいやい、分かったような分からぬようなことでは済まされないぞ!」。
しからばごめん、かくの如し。
「若愚とは{愚なるがごとく見えて、愚でないぞ、立派だぞ!}
の意味で、言い換えたら、アホに見えるかも知れんが
アホじゃないから、アホにしなさんな、と言うんです。」

又これが悪かった。
「やっぱりアホ扱いじゃ」と、叱られっぱなしだった。

 こんな話は後味が大切なので、二段の方は賢いんですぞ。強いんですぞ!
念には念を押しておきます。

囲碁九品 
中国で囲碁は囲棋である。
碁品のグレードを九つにランク分けしている。
ここにいう品とは品質、品格で、したがって、
碁が強いだけでなく、品格が伴おうてくる品の称号である。

品はインドの教典から来ているそうで、
「ヒン・シナ」でなく「ボン」と読むそうな。

因みに九品は、九段は入神、八段は座照、七段は具体、六段は通幽、五段は
用智、四段は小功、三段は闘力、二段は若愚、そして、初段は守拙である。


これを見ると、六段以上は抽象的で、五段以下はそのものズバリで
分かりがいい。中でも、
若愚、守拙は格別素晴らしい

守拙と若愚の詳説 
若愚は「愚なるがごとく見えて、愚でないぞ」
守拙は「拙なきを守る」ですが、「拙は黙にして逸」

これは単に「ツタナイ」と言うものではありません。

この二つは達者を戒め、功を弄するをきらい、
素朴の中に真実を感じ取るべし、
と教えられていると聞いています。

続アホの部屋
東洋では、愚だとか、素だとか、樸だとか、拙だとか、
こういう人間内容を非常に尊重します。
近代化的抹消化、つまり人間として枝葉末節に走ることを厭うからです。

人間はより多く生命、すなわち実在の根本を守ろうとします。
枝となり、花となり、実となり、葉となるような抹消化を避けて、
より多く幹となり根となって、
常に全体性、永遠性、無限の創造性を尊重し、
それを体現しようとします。

愚、素、樸、拙などは、こういう思想信念、
したがって見識、風格を表す言葉なのです。


安岡正篤『三国志と人間学』より

永遠の人生 
われわれは学校で、これらの言葉は、
自分をへりくだって言う言葉だと教えられてきた。

わたしも長らくそう信じてきた一人だ。だが、
安岡正篤はこれを枝葉末節に走り、矮小化しやすい人間の自戒の言葉であり、
全体性、永遠性を見失うまいとする願望から来ているという。

無為自然
愚、素、樸、拙といった価値観を受け入れ、へりくだって生きるとき、
人には見えなかった全体性、永遠性が見えてくる。

愚、素、樸、拙という人間は揺るがない。てらいがない。無為自然である。
こういう人間こそ真に怖い。

神渡良平『安岡正篤人間学』の「愚・素という人生観」より