人とコンピュータの比較

 

一.計算

 今世界で最速のコンピュータは地球シミュレーション用といって
地球の温暖化の問題などを取り扱うためにNECが開発したものです。
320台のコンピュータをつなぎ合わせたもので、
1秒間に35兆回もの演算(たとえば足し算)をすることができます。
研究中のものでは更にこの数百倍速いものが開発されています。

   計算能力に関しては人は全く足もとにもおよびません。

 二.勝負事

 平成9年、IBMがチェス用に開発したコンピュータ「ディープブルー」が、
チェス世界チャンピオンのカスパロフに勝ちました。
負けた名人が「コンピュータ相手ではどうも闘志がわかない」と言ったとか。

 将棋では、私はパソコン将棋に全然歯が立ちません。
こちらが指すか指さないうちに、指してきます。
「あっ失敗した」と思ったとたん、急所をついてきます。まだ勝ったことがありません。
アマ三段ぐらいの実力だそうです。

 チェスと将棋にはその複雑さには相当の開きがあるようです。
指し手の場合の数(指すことのできるすべての手の総数)は
チェスで10の120乗、将棋で10の220乗といわれています。

その差は、将棋では相手から取った駒を再び自分の駒として使えること
(ある国際人権保護協会で、これは捕虜を自国の戦力として使うことで、
人(駒)権侵害にあたるのではと問題になったとか)と、
駒を金に変えることができることから生ずるものです。

しかし、詰め将棋に関しては、コンピュータは威力を発揮するそうで、
人が解けなかった詰め将棋をコンピュータが解いたことがあるそうです。

   米長名人は「感は読みに勝る」という本の中で、
  次の指し手は、数手はすぐ思いつくものだ、時間をかけているのは、それらの手に間違いが無いか、
  数手のうちどれが最良かを検証しているのだと言っています。
  たしかに、羽生元七冠王が指しているときに脳の中を調べたところ、指している時には、
  論理の左脳ではなく、感性の右脳が多く働いていたそうです。

 オセロでは、
人はコンピュータに絶対勝てません。現在はチェスあたりがその限界にあるようです。

   


囲碁に関して

将棋の局面は9×9ですが、囲碁は19×19です。場合の数は10の360乗だそうです。
コンピュータの碁の実力はまだ段には達していません。
しかし、詰め碁に関しては、将棋同様、威力を発揮するようです。

碁について言えば、
まだしばらくは、コンピュータは、人間に追いつけないようです。
しかし、静岡大学の飯田教授(プロ五段)は
「コンピュータは、2010年までにプロ四段、2020年には名人級になる」と言っています。

ゲームでも、局面の数によっては、コンピュータは、
スピードにものをいわせて全部洗いざらい調べて、
最適手を選ぶというやり方で勝つことが出来ます。
詰め将棋や詰め碁は、その範疇にあるのでしょう。

1秒間に35兆回もの演算のできるコンピュータが、
1秒間に1,2回位の演算しかできない人間に勝てないなど信じられますか。

キーワードは「形勢判断」のようです。


三.画像認識・処理

   NECに勤めていたときに、あるホテルからこんな相談を受けたことがあります。

   お客様が入ってこられた時に、
その方が以前に来られたことがあるかどうかコンピュータで認識できないかということです。
 高級ホテルにはそういうベテランがいるそうで、「先日はお越しいただきまして・・・」

 と挨拶することが客に非常に良い印象を与えるのだそうです。

 コンピュータにその客の情報をいろいろ入れておいて、
例えば食事の際に「先日は・・・を召し上がっていただきましたが、
本日は是非・・・を」と新しいメニューをおすすめできたら最高だというわけです。
しかし、その時には残念ながら、その話はうまくいきませんでした。
しかし、今なら可能だと思います。

 デフォルメされたマンガの似顔絵を見て、人が共通に「似ている」と感ずる感覚は何なのでしょうか。
コンピュータでは元の写真と重ね合わせて、その差が小さい時ぐらいしか判断できず、
似てるとは判断できないでしょう。
人の場合は、共通の感性に基づく感覚だと思うのですが、
山藤章二さんが描いた似顔絵を見るたびに感心するばかりです。

 画像認識についてはまだ人の方が優れているようですが、
画像処理に関してはコンピュータは素晴らしい能力を発揮します。

昔は卒業写真を撮るときに、欠席した人は上のほうに
丸枠で追加するということをやっていましたが、
今は欠席した人の写真を全然分からないように
全体の写真の中に埋め込んでしまうことなどは朝飯前です。
片思いの彼女との写真を、まだ行ったことのない
パリのエッフェル塔を背景に写すこともできるのです。

  写真が犯罪のアリバイの証拠物件にはなりにくくなってきたそうです。

 不動産屋が客にパソコンでカーソルを使って、
新築の家の中をどこでも自由に連続的に見せて回ることが可能になっています。

 最近では、テレビや映画などの中で、登場人物やその動き、風にそよぐ木々などが
人工とは思えないほど自然にできているのには感心するばかりです。

 四.俳句、短歌、詩

古池や 蛙飛び込む 水の音    芭蕉

 コンピュータに解釈させると、こうなるでしょう。

「古い池があって、そこへ蛙が飛び込んで、ぽちゃんと音がした」

 私のレベルだと、良さを解説してもらってはじめて、なるほどそんなものかと思う程度で、
あまりコンピュータと変わりはないかもしれません。

 分かっている人の場合には、その句を言葉上で理解しているだけではなく、
その人と作者の心とが、その句を通して深く共鳴しあっているのではないでしょうか。

 五.翻訳

 もうかなり昔になりますが、コンピュータで人の知能を実現しようという人工知能の研究が、
多くの有名な先生方によって行われていた時期がありました。

その中のひとつの対象にコンピュータによる自動翻訳がありました。
NECの小林宏治元会長がいつも言っていたのが「我が社の最終目標は、
電話で世界中の人たちがお互いに自国語で話ができることだ」ということでした。

 しかし結果は必ずしも期待できるものではありませんでした。

 たとえば、翻訳でTime flies like an arrow(光陰矢のごとし)を、
コンピュータに自動翻訳させると
「時間は矢のように飛ぶ」の他に、
「時ばえ(蝿の種類)は矢を好む」とか
「矢のような時ばえ」など6種類ほどの訳が出てきたそうです。

「僕はうなぎだ」を自動翻訳すると
I am an eelでしょう。
飯を食べに行って、「君は何にする?」「僕はうなぎだ」の場合には
、「
I will eat an eel」となるでしょう。

 翻訳は論理で解ける問題ではありません
前後の文章の内容によって意味が決ることがあります。
ときには感性の問題がからんでくることもあります。
コンピュータにとっては、意味を読み取ることはなかなか難しい問題のようです。

 今は辞書の検索はコンピュータで、意味の選択は人がという、
いい協力関係ができているようです。

 六.分かり合う

 コンピュータ同士が分かり合うということには2種類の意味があると思います。
一つは、送られてきたデータを受け取ることができるということ(意味は関係なく)と、
もう一つは制御のための言葉(プロトコール)が分かり合えるということです。

 人と人とが分かり合うということは、
言葉を言葉として理解することができるということだけではなく、 
言葉を媒介として、お互いの心と心とが共鳴しあうということではないでしょうか。

  いままでお話してきたことを眺めてみますと、
 どうもコンピュータの得意とするところと、人の得意とするところがあるようです。

  多少誤解を招く覚悟でいいますと、
論理と言葉の左脳に関してはコンピュータ、
感性の右脳に関しては人といったところでしょうか。

 つぎに、これらの違いを生じさせている、
人の脳とコンピュータの構造について考えてみます。