「孫子の兵法」で打つ
高野圭介
一、孫子・弁証法の思想
「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」で有名な
孫子の兵法は世界の武将の指南書となり、
日本では「迂直の計」から武田信玄の風林火山を生じ、
遠くはナポレオンがこの兵法を座右の書としたと言われている。
孫子は戦の勝ち方を説いた。
多数の兵が少数の兵に常に勝るとは限らない。
陣形も地形によって変化する。
それに将軍と兵のよしあしを考え合わせると、
必ず勝つという戦いが出来るのは、一生の内一度あれば良い方だろう。
むしろ、孫子はそんな言い方をしていない。
必勝の法を授けて呉れてはいるのだが、
その法にこだわると負けるのではないか。
兵法とは戦いの原則に過ぎない。
が、実戦はその原則の下にあるのではなくて、上において展開される。
つまり、かってあった戦いはこれからの戦いと同一のものはなく、
兵を率いるものは、戦場に於いて、勝利を創造しなければならない。
cf:宮城谷昌光著『楽毅』p.27
孫子は「無理のない勝ち方をせよ」というのである。
「万物を固定化したものとでなく、変化発展においてとらえよう」とし、
「万物は止むところのない相互転換が無限に繰り返される」という
孫子の弁証法から変化の法則を見いだそうとしている。
さて「彼を知り己を知れば百戦殆ふからず」は具合的に
勝利を収めるための五つの条件を掲げている。
@戦うべきか否かを判断できること
A兵力に応じた戦いができること
B君主と人民が同じ目標を持つこと
C態勢を万全にして敵の不備につけ込むこと
D将軍が有能で、君主が軍事に干渉しないこと
二、無理なく勝つ「謀攻の部」
孫子によれば、戦争は目的でなく手段である。したがって、
戦わずに勝つのが最高の勝ち方である。それが「謀攻」に他ならない。
「謀攻」は単に小手先の術策ではなく、法則性に則った無理のない勝ち方をいう。
また、戦わずして勝つのが最高で、「百戦百勝は善の善なるものにあらず」とも。
戦いを善くするものに、 兵に4路5動あり 進退左右が4路であり、4動であるが、
ー黙々として処るも、また動なりー 進まず、退かず、左にも右にも行かないで、 静かに黙しているのもひとつの動。 cf:宮城谷昌光著『楽毅』 p.2-179
さて、「兵力に応じた戦い方」を「謀攻の部」にこう言っている。
「故用兵の法 十則囲之 五則攻之 倍則分之 敵則能戦之
少則能逃之 不若則能避之 故小敵之堅 大敵之擒也」
すなわち、
「故に用兵の法、十(倍)なれば之を囲み、五(倍)なれば之を攻め、
倍すれば二つに分かち(攻め)、敵すれば(互角なら)之とよく戦い、
少なければよく之から逃げる。しかざればよく之を避け、
故に小敵の堅は大敵の檎なり。」
さらに詳説すれば、
「戦争に際しては次の原則を守らねばならない。
則ち十倍の兵力があるときは敵軍を包囲する。
五倍の兵力があるときはこちらから攻めまくる。
二倍の兵力があれば我が兵を二分して挟み撃ちにして戦い、
互角の兵力なれば全力で戦う。
しからざれば(劣った兵力であれば)勝算がないときは戦わずに、
之を逃れて退却する。
法則上で言うと、この原則を無視して、自分の弱小にもかかわらず
強気一点ばりで戦うと、むざむざ敵の餌食になるだけだ。」と。
三,「弱いところ」を巡って
いま、囲碁において、この兵力を石数と置き換えてみよう。
「囲碁の戦い方も謀攻にあり」と言っても過言でないように思う。
これは唐の王積薪「囲碁十訣」の「不得貪勝 入界宣緩 攻彼顧我 棄子争先
捨小就大 逢危須棄 慎勿軽速 動須相応 彼強自保 勢孤取和」の内、
石の命の取り合いである戦いの大半のノウハウを
具体的に物語っているではないか。
これを単純化して、更に「石数」と置き換えれば分かり易くこれを守れば
打ち易い筈だ。多くとも石が凝り固まったら烏合の衆となり「過ぎたるは及ばず」
と悪化するが、一般に石が多ければ強い筈だ。
したがって、一局の碁の傾注すべき点はこの一点!
@自分の弱い石を作らない。
A相手の弱い石を探し、そのところに着点を探す。
B故に自分の弱いところから、相手の弱いところへ向かうのが最強最大なのだ。
C少数は堅とせず、軽やかに舞い、大所高所に立ち、「棄つべし」が基本である。
なお、プロないし高段の芸はあらゆる手だてを講じて戦う。序盤中盤収束まで、
いろんな角度からあれこれ考えて、息を抜く間がない。
しかし、普通のアマなら、この「弱い石を巡っての攻防」であり、
「弱いところ、のただ一点」の「謀攻」だけでも、並以上に戦えるものと信じている。
孫子のいう兵法の極意は 「刻々と変わる局面を望し、周辺を観察する。 戦いにおける法は規範の法ではなく、常ということはない。 兵の形は水に象る。兵に常勢無く、水に常形なし。 刻々千変万化する。それを極むれば、無声と無形に至る」
つまり「声なき声を聴き、形無き形を看る」 一口にいって「無声と無形」である・・という。
cf:宮城谷昌光著『楽毅』 p.1-97
少なくとも私の碁を孫子の兵法に従って顧みるとき、 一着ごとに変化する盤上に、眼を凝らして、 「石の声なき声を聴き、形無き形を看よう」 そして、明るい碁を創造したいと思う。
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