蘇州の世界文化遺産



百花州公園はとても美しい。
太湖へ繋がる運河の河畔には酔芙蓉と柳の
小径が連なっていて、爽やかな散策道。
かって10年も前、
私が杭州から一晩かかって船便で着いた波止場に近いところだ。

その中央辺りに、孫子の兵法で有名な孫武の碑が立っている
春秋時代末期(B.C480年頃)、

呉国の闔廬(こうりょ)に仕えた孫武(そんぶ)である。
呉国は今の蘇州である。

中国人は孫武の書を称えて言う。
「孫子以前に兵書無く、孫子以降に兵書無し」と。
クラウセヴィッツの戦争論と並び、
東西の二大戦争書とも呼ばれる名著である。


百花州公園・早朝のバス・ストップ

        




蘇州の蒙ちゃん


「呉下の阿蒙
三国志の頃、「呉下の阿蒙」と言われた人がいた。
呉とは今の蘇州のことである。繁華で粋な都市だった。
呂蒙はそこに住んでいたから、「呉下の阿蒙」と言われた。


呉の将軍
やがて、月日が経った。
呉の将軍に、魯粛という人がいた。
彼は同僚の呂蒙将軍の学識と武略、それに人柄を深く敬愛していた。


百花州公園



早暁に立つ

呂蒙将軍


男子たるもの

三日も経てば



ところがある日、
呂将軍がむかし呉の街でごろついていた蒙ちゃんであること
知って、ぼう然とした。

「まさか」
「魯将軍、残念ながら、わしがその呉下阿蒙だったんですよ。
人は三日も経てば見違えるように変わるものよ。」


見違えるように

変わる


これから、二つの名句を生んだ。

「呉下の阿蒙にあらず」

「士別れて三日なれば、すなわち当に刮目して見るべし」



夜の山塘街
蘇州の観光資源である
虎丘、寒山寺、玄妙観には人が満ちあふれている。
留園を初め、数多の(高価な)大湖石の庭園が散在して、
夜の山塘街は唐王朝の最盛期そのままを再現している。

 もちろん、街を縦横に連ねるベニスのような水郷・蘇州の運河は
臭気の泥沼から、魚の住む水に変わっていた。


 顺路来观棋的深圳棋友何森说,山塘街不可不去,尤其夜景妙不可言。
晚饭后我和唐腾带领六位日本棋友分乘两部出租车往山塘街而去。

七里山塘始建于唐代,已有1100多年的历史,千百年来店铺、
住家鳞次栉比,朱栏层楼,柳絮笙歌;水巷里舟船款款,
繁华市井居货山积,行云流水,列肆招牌,灿若云锦
《红楼梦》也把阊门、山塘一带称为


余昌民
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虎丘

寒山寺


虎丘には4~50人のサーカス団が招聘され、
無料公開して、人を呼び集めている。

寒山寺は広さはかっての数倍になり、
一区画一帯がすべて境内になった。
素朴な味の寺が、キンキラキンになったと、嘆くものは嘆け。
発展とはそういうものなのである。

   
陽澄蟹
我々が上海蟹と呼んで、日本では一匹\3000.もする
珍味とされている蟹は陽澄湖で取れる淡水蟹で、
陽澄蟹ないし大閘蟹とも呼ばれ、ルーツは蘇州だった。

         
太湖風景区
蘇州の西山風景区・東山風景区はそれぞれ
石香山・花園の観光資源もさることながら、
雄大な太湖の景観に感嘆す。

   
金鶏湖周辺
金鶏湖周辺はシンガポールが莫大な投資をして、
工業地帯として開発した、その投資高は、
1000億シンガポール・ポンド=1500億元=2兆3千万円とも言われ、
中国サイドがその数倍にも上る投資中とも聞く。

郊外の金鶏湖周辺は一大工業地帯として再開発され、
経済の息吹がすざましい。

 したがって、近郊の農村から人の移住が大きく、
観光客も押すな押すなである。