古墳の話
梅影悟彦 講師
高野圭介 記述
梅影悟彦講師のご紹介
高野圭介記
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梅影さんは定年退職後古墳の研究に取り組んだ。
すでに2000もの古墳を足で訪ねている。その蘊蓄たるや奥深いものがある。
本職に近いものがフルート演奏。ソロとシンフォニーの一員と。
趣味といえば、ゴルフ・囲碁。これが私と共通で共に6段クラス。
彼のバイタリティは更なる趣味を模索中という。
それにも増して、氏の協調性である。何事に於いても氏の嫌な顔を見たことが無い。
更に、取り組みに独創性に富んでいるということだ。
他に類のないほど勝れた素質に恵まれている。
吉田健さまからのメールです、
「それから梅影さんより私の質問した「継体天皇の古墳」について
ご丁寧にもさらに詳細な内容のお手紙を頂きました。オドロキでした。
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謎解きの世界 |
冒頭から壮大な日本歴史の歩みから話は始まった。
BC14000年頃の石器時代・縄文時代の古代史は文献が無い以上、
いつまで遡っても謎解きの世界であります。
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弥生時代 |
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弥生時代(BC数世紀 – AD3世紀中頃)の
邪馬台国はどういう国で、
どこにあったのか。
卑弥呼という女王は謎だらけの女王です。
卑弥呼自体、どのような人物だったのか、
伝説もありますが。
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現東大キャンパス内の、かっての弥生町から出土した土器から
弥生地の名称が付いたという。
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20万基の古墳 |
さまざまな古墳
古墳雑談
発掘の歴史に於いては、驚くなかれ、日本で初めて古墳を発掘したのは
侍塚を発掘した水戸黄門さんで、日本第一号となった。
全国の古墳の数は20万基あると言われる。その内16万基はすでに認知され、
残り4万基は今後の国土開発で発見される予想数である。
因みに、我が兵庫県は全国の10分の1の2万基あると言われている。
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百済との関係
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続いて、古墳時代(AD3世紀中頃 –AD7世紀頃)は朝鮮では百済時代であった。
百済との関係は無視できない。
「中国南部の呉の国から 384年 百済に仏教伝来した。
その百済から素通りの形で呉の文化が日本に流入されてきた。
曰く、呉の着物=呉服。123の数字。 405年日本に漢字を伝える。
中でも552年 百済から日本に仏教伝来など、
日本へ文化の流入は矢継ぎ早であった。」
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やがて、隋(589)が中国統一を成していき、百済も滅びる。」
因みに百済滅亡の経緯です。660年百済が新羅に攻められて滅亡した。
しかし日本の人質になっていた百済の王子をかついで
百済の遺臣たちが各地で百済復興の兵をあげる。
それに日本も援助し、元百済と日本の連合軍が唐・新羅の連合軍と663年に白村江に戦う。
しかし、元百済と日本の連合軍は敗れて百済復興の目はなくなり、完全に滅亡した。
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古墳から飛鳥へ |
さて、こういう時代背景の中の古墳について言えば、
弥生時代の古墳は墳丘墓で、古墳時代の古墳が古墳となる。
ただ学問的にも墳丘墓と古墳の相違は不明瞭である。
飛鳥時代は記録のある明日香京の成立で納得できる。
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日本の歴史年表
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旧石器時代 |
BC14000年頃 |
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縄文時代 |
BC14000年頃 – 前数世紀 |
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弥生時代 |
BC数世紀 – AD3世紀中頃 |
卑弥呼 |
古墳時代 |
AD3世紀中頃 –AD 7世紀頃 |
神功皇后・仁徳天皇・継体天皇 |
飛鳥時代 |
592年 – 710年 |
大化の改新・聖徳太子・持統天皇 |
奈良時代 |
710年 – 794年 |
道鏡・ 行基菩薩・鑑真和尚 |
平安時代 |
794年 – 1185年 |
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鎌倉時代 |
1185年 – 1333年 |
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建武の新政 |
1333年 – 1336年 |
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室町時代 |
1336年 – 1573年 |
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南北朝時代 |
1336年 – 1392年 |
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戦国時代 |
1467年(1493年)– 1590年 |
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安土桃山時代 |
1573年 – 1603年 |
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江戸時代 |
1603年 – 1868年 |
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幕末 |
1853年 – 1868年 |
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明治時代 |
1868年 – 1912年 |
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大正時代 |
1912年 – 1926年 |
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昭和時代 |
1926年 – 1989年 |
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連合国軍占領下 |
1945年 – 1952年 |
1947年5月憲法発布 |
平成時代 |
1989年 – 現在 |
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古墳の終焉 |
やがて、仏教普及により火葬という埋葬の変化で、古墳から古墓へと移り変わる。
つまり、古墳造りから寺院造りに変わっていった。古墳の終焉である。
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話題のテーマ |
話題になったテーマ
日本の古墳は日本独特か?
日本人の朝鮮に対する歴史認識
日本人のDNAは大陸から、朝鮮から、南方からか
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