忠臣・范蠡のこと

中国、春秋時代末期の呉と越の二国は仲が悪く、紛争が絶えなかった。

范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、
夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光西施)を密かに送り込んでいた。
思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴ってへ逃げた。

越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。
范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、
范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。

その間、臥薪嘗胆など有名な言葉を残した。

                                     高野圭介




臥薪嘗胆の図・・・
中国の春秋時代の呉王夫差の薪に臥す再現模型(紹興博物館)なども印象深かった。


 


 


 


児島 高徳のこと。

鎌倉時代
末期から南北朝時代にかけて
活躍したとされる備前国児島郡出身の武将。 
元弘元年(1331年)の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して
忠勤を励み、南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。

後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。
高徳は天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、
その時既に天皇一行は院庄(現在の岡山県津山市
付近へ達しており、
完全な作戦ミスの前に軍勢は雲散霧消してしまった。
その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、
夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館
厳重な警備を潜り侵入する。
やがて
天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな
警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった
桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡」と記した。


12歳で終戦を迎えた私らは、小6のとき、唱歌として習った歌がある。

天勾践を空しうする莫れ。時范蠡無きにしも非ず。・・・耳の底から離れない。
今、まさしく本場・范蠡の廟を訪れたのだ。


 



唱歌 「児島高徳」

1914年には、
文部省唱歌「児島高徳」が発表され、
尋常小学唱歌 第六学年用』に掲載された。

船坂山や杉坂と、
御あと慕ひて院の庄、
微衷をいかで聞えんと、
桜の幹に十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』

御心ならぬいでましの、
御袖露けき朝戸出に、
誦(ずん)じて笑ますかしこさよ、
桜の幹の十字の詩。
『天勾践を空しうする莫れ。
時范蠡無きにしも非ず。』