六然訓 (315)



                                                   高野圭介

「六然訓」とは「菜根譚」と同じく中国の明の時代の古典です。
幕末では勝海舟や近代では安岡正篤らも深く学んできたものです。

大勢の人が何かと悩んだりした時には何度も読み返しては
自分を奮い立たせてるようにしてきたとお思います。

六然居士の草書一幅對聯


 この中の「處人藹然」については、佐藤一斎の『言志後録』(33条)の解釈がいい。

「春風をもって人に接し、秋霜をもって自らを粛(つつし)む」である。
散歩しながら感ずるのであるが、周りを通りぬける風はもはや冬の風ではない。
まぎれもなく春風である。押し迫る山々は、まさに「藹」の様相である。

体中のすべての細胞が伸びをしているような感じがする。
これができれば、これができれば…と、その境地の遠さを嘆く。


六然    自處超然   處人藹然   有事斬然   無事澄然   得意澹(淡)然   失意泰然
  
               チョウゼン   アイゼン   ザンゼン   チョウゼン    タンゼン   タイゼン

 @自処超然
自分自身は何事にも執着することなく、自分に関する問題には一切とらわれない 

 A処人曖然
人に接するときには春風に霞がかかっているようなのんびりとした雰囲気でいること

B有事斬然
起こった事柄にはテキパキと処理し、きびきびと取り組む 

 C無事澄然
何も問題がないときには、心を水のように澄み切っている。

D得意淡然
 得意の時は奢らず、淡々とし、あっさりしている。謙虚な気持ち
(調子のよいときは、傲慢になってしまいがち)

E失意泰然
失意の時はゆったり、堂々としてゆったりと構えている。
菜っ葉に塩をかけたように、くしゅんとならないように


2011年3月、上海碁会で出会った六然居士遊有方の漢詩と蘊蓄に酔いしおれた。




安岡正篤自身『六然訓』の一言




「私は、この『六然訓』を知って以来、少しでもそういう境地に身心を置きたいものと考えて、それとなく心がけてきた。
実によい言葉で、まことに平明、しかも、われわれの日常生活に即して活きている」と! 

 
また、こうも言っている。

「人間何が悩みかと言うと、自分が自分を知らざる事である!

人を論じたり世を論じたりするのはやさしいが自分を論じ自分を知ると言う事は
実はこれが一番大事であるにかかわらず、なかなか難しい事である。

人間はまず自分を責むべきであって、世の中や時代を責むべきでない。

世の中が悪い、時代が悪いと言うのならば、そう言う時勢に対して、自分はどれだけ役にたつのか!
それをどう解釈し、それに対してどういう信念と情熱を持っているのか、よく自分を責めるがよい」