碁を哲学する

古来から先人達は「碁とは何か」という命題に取り組んできた。
碁には数々の「碁の哲理」が支配しているのを知る。これを考察する。


 囲碁哲学の探究

・・・先人に学ぶ・・・「碁を考える」・・・貴重なご意見・・・



                                     2017年4月       高野圭介


生存権と地


「碁とはどう言うものかと考え、何かを掴んだ時、一皮剥ける
喝破したのは故小山靖男九段である。

 事実、碁という幽玄の世界の哲理を掌にのせて、
「これが碁じゃ!」と見せることは不可能である。

秀行さんが「俺は碁のことが何も分かっとらん」と喝破したことは衆知のことである。

では、日本では一般のアマはどう捉えているか?
「碁は1目でも地の多い方が勝ちだから、しっかり地を取って打ちます。
特に、石数の効率の良い隅は死守します。」
これは囲碁の日本ルールで、地を数えることがベースになっているのではないか。

 ところで、中国ルールでは「石の生存権を競う」とある。
つまり、自分の石の活きている数と空き地の目数(地)の総和」を問うので、
地の数だけでは無い。
(世界には他にIngルール=応昌期ルールなどがある。)

AI(Zenを含め、多くの囲碁プログラム)は中国ルールを元に作られている。
その最も重大な点はあくまで「実戦解決」が基本であるとされ、
世界ルールが設定されるとすれば、やはり、中国ルールがベースとなろう。

 不思議なことに、
日本ルールと中国ルールの結果が同じというからオドロキである。



 かって、坂田栄男が中国で打った。取られた石をアゲハマとして残さない。
終局に際して坂田は言った。「この碁、私は勝ってるよ!」と。
その通りであったが、カミソリ坂田ですら、理解できなかった。

 中国人は最初からまず石の活きた数を考え、地の数も同時に考える。
その時、石を取ることが優先される習性となることは疑いも無い。

 
思うに、
棋力2級から4段までの6段階の石(筋と形・その他も)は質的に余り変わらない。
しかし根本的に相違点がある。おもしろいことに、それは、
この6段階で攻める姿勢の碁が上位で、守りに徹するほど下位になっている。


碁は断にあり


 ゲーム(英: Game)とは、遊びや遊戯と訳される。
あくまで、楽しめるものでなくてはならない。
それにはゲーム自体の面白さが要るものだ。

 ゲームはインドア、アウトドアを問わず、
球技や競技でも、カードや盤上遊技にしても、
全てのゲームに共通なのは「キル、ツナグ」の一点である。



 一口に言って、「切られたら負け」が基本である。
もちろん碁の基本は「キル、キラレル」に掛かっており、
「碁は断にあり」と喝破した細川千仞こそ流石である。
但し「キルはキラレル」という意味がある。


ヨミの力


ヨミの深浅の差で勝負は決します。
ヨミを養うのは詰碁が一番です。

ヨミ・・・・・とは、三手のヨミ、五手のヨミ・・・
「ヨミの入った手」「ヨミふける」「ヨミ込む」etc.

碁はしっかりヨンで打つものです。
正確に、早く、深く、素晴らしい筋でヨム


碁を創るちから


碁を創るちから


「自分以外のものになるな」

                  山崎町教育長・故 尾崎正一 提唱 (抄)

次郎物語で知られる下村湖人先生が
終始「自分以外のものになるな」ということであったという。
これは「自分自身は何か」ということであって、考えることで、
いっそう「私」となり、「私」たらんとして、いっそう考えるということでありましょう。

真似をする、繰り返すなど所謂「俗」は考えが鈍り、「私」が弱まります。
「脱俗」「毉俗」という警語は囲碁にも通じて心すべきこと、常に戒めたいと存じます


 囲碁の

二律背反


「両雄並び立たず」というが「両雄並び立つ」ということが
盤上に真として具現されるのが碁だ。

一つの真理があって、またその全く矛盾する逆の真理がある。
その相受け容れられない二つの真理が厳然として盤上に両立している。
つまり、逆もまた真なりだ。

 例えば、勢力と地合。局面が進行して双方満足ということもある。
また変化して分かれた時も、双方自分が有利と判断していることもある。

例えば、武宮正樹と趙治勲。武宮は大きいところから打って行くのが宇宙流。
趙治勲は星に三三入りで地が多く、攻められないから厚いと主張します。
双方、「してやったりが糠喜び」という不条理が真として全篇罷り通っているのである。


厚みと薄味

 
厚みとは「攻められない石」のこと。
壁の別称ではない。
例えば、厚みで攻める、とは傷が無いから安心して戦えること。

薄味とは次々手が 生じてくる要素を含んでいる。
薄い石を抱えていては戦えない。碁は走ったら薄くなる。
薄いのがダメということも無く、厚いのが良いからと言って、
厚がって喜んでばかりもおれないということもある




棄てる

 
危きに遭えば棄てなさい、とは囲碁十訣にある。
石を棄てること。極意中の極意である。
宇太郎先生が十訣の中で、第一番と私に伝授された。
 その時「危きに遭えば」は要りません。「棄てる」のです。と。

戦略的に棄てる。

そうで無くともムダ石を一個でも無くするよう石を削ぎ落として簡素にする。
この簡素さが強いんだ。石が多くなれば強いというものでは無い。
逆に傷がどんどん増えてくることもある。

 恰も俳句で、言葉を削ぎ落としていく過程に酷似している。


一手の価値の
追求と

手割りで
形勢判断

 
 
石の効率を争うのが碁とも言える。
盤上のどの石一つを採っても、一着の価値はっすべて同じ価値、
一着は一着という価値があるというものだ。

 打ち碁で先手後手の差は一手。しかし、着手の価値の差は半手。
一方、コミは普通7目前後。半手で7目だから、一着の価値は14目。

一方、手割りというのがある。
変化して、その応接の石の効率で形勢判断しようとするものです。
 一手の価値の増減がたちまち判明し、ムダ石がないかなどを判断に当てる。
 但し打ち切ったとか、アジの有無などは隠れて見えないという問題は残る。


アジ

キメる



 
石の応接に於いて「アマは打ち過ぎて負ける。プロは打ち惜しんで負ける。」
そう言われます。つまり、キメ(過ぎ)て打つのとアジを見て打つの差です。

 キメる典型はアタリ。アジは打たないで様子見ということで、変化と手段の元です。
手抜きとはチト趣が違います。アジ消し、キカシ、キカサレも微妙です。


フリカワリ。

見合い。

 
明るい碁の大局観。布石では攻められない工夫です。
要点が三つある場合など、二箇所を打つための戦術。
これは中盤でも、ヨセでもとても有益な思考法です。

 余談ですが、中国には「見合い」という言葉はなく、
「二つの内どちらか打てる法」といった表現です。


盤外の諸問題

 
 また冷静さも大切だが、
「気合い」という闘争心が条理を超えて盤上を支配していて、
石の命に勢いが付いて勝利へ導くこともある。

姿勢。
碁を打つ姿勢。盤上の石のたたずまい。これらが自ずと盤上の石に現れる。
心すべきことだ。