もののあわれ


今の現世に表れたもののあわれの世界



                                           高野圭介

トマト
梅雨明け間近かという早朝、須磨の浜での、もののあわれ話である。

手塩にかけて育てた我が子を交通事故で奪われた悔しさにも似ている。
トマトが可憐であればあるほど、無常観的な哀愁を湛えて語られる。



あわれトマトが消えた。



                            森田武夫


「私はトマトを二本丹念に育てていました。
一個のトマトが綺麗なピンクに色づきはじめ、
もう4.5日で年頃かなと思っていた矢先のことだ。

今朝見ると、無い。綺麗に何も無い。探したら、
青いままのトマトと一緒に無惨にもそこここに転んでいる。
切り口を見ると、鋭利な刃物でスパっと切られているのです。

心ない人のなせる業かとその’誰かさん’の反省にと、
無き数に入った六個のトマトを並べておきました。

明朝、それが、又消えて無くなってしまっているのです。」




 
誰かさん

青く固い伸び盛りの実を引きちぎって’投げ捨て’
気分はすっきりしましたか?

すっきりしたのなら、千切られたトマト達も誰かさんの気分転換に
少しはお役に立てて出来たと、本望に思っていることでしょう。

そうでないならば、全く無意味で、残念なことです

今年挑戦したトマトは思いのほか順調に育ち、通りすがりの人にも
その成長を楽しんで戴いていたようです。もう少しで、
赤く熟れた実を楽しめるのにと思うと、肩の力が抜けてしまいそうです。

’誰かさん’
この茎からまだ実が付くかも知れません。
そのときは、赤く熟れてから、煮るなり焼くなりして下さい。
ゆっくり成長を楽しみましょう。


 野バラ  
あわれ、トマト・・・と思っている内に、
ふと、「野薔薇」が口をついて出てきた。



野はら

ヴェルナー作詞

ドイツ民謡・歌詞:近藤 朔風訳



 
童はみたり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ 紅におう
野なかの薔薇

手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思出ぐさに
君を刺さん 紅におう
野なかの薔薇

童は折りぬ 野なかの薔薇
折られてあわれ 清らの色香
永久にあせぬ


野バラの回顧
余分のことであるが、「野バラ」について、チロルでのことである。

風呂の中でベートーベンの第九♪♪を歌っていた高野さんの前に
別のドイツ美人が入ってきた。
よく見ると、今さっきサウナ風呂で、ツタンカーメンが横たわっているように、
風にそよぐ葦のすっぽんぽんのままのご婦人だった。
二人で第九を唱和したという。

その夜、碁を打っているとき、その風呂友達の彼女が現れて、
高野さんと二人で 「野薔薇・Heiden roeslein」の合唱が始まった。

「Sah ein knab ein Roeslein stehn ♪♪
・・・童は見たり野中の薔薇♪♪・・・
Roeslein auf der Heiden♪♪」

歌が終わって、
彼女の差し出した名刺には「Heide Krantz」の名があった。
彼女はチェロの名手だったのである。

塩沢孝子 記


もののあわれ

嗚呼


野中の薔薇に扮した少女が健気にも似た無言の抵抗
「手折りて往かん 野なかの薔薇 手折らば手折れ 思出ぐさに 君を刺さん」
ここに平安朝のもののあわれを感じて、感傷的になったものだ。

上からヨンでも下からヨンでもトマト、たかがトマトなどとという勿れ。
育成者にとっては紅顔の美少女なのである。
その生育の毎日の様子が楽しみで、手を入れていた。

今はただ、怒りと共に、しみじみとした情趣という
もののあわれの中に、彼はひとり佇んでいるのでは。