堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ

・・・終戦70周年に山本玄峰老師 を思う・・・

                                    2015年8月15日    高野圭介

 ラジオの玉音  
それは暑い夏だった。

正午にラジオを聞くようにとかで、家族がラジオの回りに集まっていた。
鉱石ラジオだったか、真空管ラジオだったのか、判然としないが、
ラジオから流れ出る玉音は聞き取りにくい。

玉音放送原文 


惟ふに今後帝國の受くへき苦難は固より尋常にあらす。
爾臣民の衷情も朕善く之を知る。
然れとも朕は時運の趨く所堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ、
以て万世の爲に太平を開かむと欲す

天子の声は小さいが、絶対の力を持っているとは、このことだったのだろう。
誰かが「日本が負けた!」と言った。

碁吉会の熊野詣   
あれから70年。当時のことがいろんな角度で分かってきた。

2007年8月28日~30日に、碁吉会で熊野詣に出かけた。
熊野古道・中辺路にある旅館:「おぐりや」に投宿した。
その夜、安井理夫主人から聞き及んだ秘話がある。

 天皇にご進講  


和歌山県本宮町湯峰温泉 生まれの山本玄峰老師は平素天皇にご進講されていた。

昭和20年、日本は一刻も早く、戦争を止めなければならぬ。
今となっては、負けて勝たねばなりません」。と、平和を説いた。

終戦の8月に入ってから、ポツダム宣言に苦悩する宮内庁から使者が訪ねてきた。
老師は「天皇からですか?」と、問うた。事態を察知していたのである。
「終戦の詔勅」に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」の文言を進言した。

・・・ある座談で・・・

昭和二十年八月十五日の例の終戦の詔勅の中に大変印象的な言葉がございましたですね。
「時運の趨く所 堪へ難きを堪へ 忍ひ難きを忍ひ」という言葉がございます。
この言葉が用いられたもとになったと考えられているのが、
当時八十歳の禅僧山本玄峰(1866-1961)の書簡と言われております。

 公案隻手

和歌山県のお生まれ、捨て子だったということなんですが、これほんとでしょうかね。


 慶応 二年
 (一八六六)
  明治一二年
    一四年
    二○年

    二二年

 

 一歳

一四歳

二二歳

二四歳

 

 和歌山県湯の峰の温泉の宿屋に生誕。
 捨て子だったのを岡本夫妻に拾われる。
 山に入って薪作り。
 筏渡しをして熊野本宮、新宮間往復。
 二年前より眼疾を患い、この年失明の宣告を 受ける
 七回目の四国遍路の途上、行き倒れとなり
 雪蹊寺の太玄和尚に救われる。


 
 
なお、玄峰老師には有名な公案:隻手音声がある。

また、余談だが、
玄峰老師が亡くなる直前の昭和36年に「玄峰塔」の大字を揮毫され、現存している。