置き碁風からの脱却! 第2弾 高野圭介 |
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傲慢と卑屈。 これは碁にはあってはなりません。 碁が人生の縮図というならば、実力の差なるがゆえに、 仮に、5子置いたとする・・・ 五子を敷き、その五子の置き碁には うわては伸びやかに、した手は堅固を旨として打ち進めるのが普通だ。 その、堅固風が、置き碁風となり、 自ずと、変な棋風を醸し出している。 下手が堅すぎて、この距たり、と言うか、 交わることなく平行に進むのを潔しとしないか? 置き碁でも、自由奔放に打つ、手だては無いものか? |
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この置き碁風からの脱却! 具体的には難しいけれど、 これが自分の碁をアウフヘーベン(止揚)させる一つの方法ではないか。 たとえば・・・・の、仮の話である。 石には「こう動く」という自然の動きというものがある。 定石を形成しているような合理的な動き、とでも言いましょうか。 |
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ここで、しばしば見られるものが以下の会話です。 「置き碁ならこれで良いでしょう。」 「じゃあ、互い先なら?」と問えば、 「そこまで、打たなくて、充分じゃないですか」 出来上がった碁はそれなりに立派で、言い分はありません。 でも、何か物足りない。 このスタンスに、私は耐えられないのです。 この置き碁風から、どう脱却するか! |