置き碁風からの脱却!

第2弾

                                           高野圭介





「あれは、何だ?あいつは本当に日本人か」



ふてぶてしさと横柄な言動で、政界の壊し屋・豪腕、小沢一郎。
その小沢が、中国の胡錦涛皇帝の前では、まるで借りてきた猫。

ちょこんと椅子に座った小沢は
媚びたような笑顔を浮かべ、こう言った。



「ただ今、胡錦涛主席閣下自らですね、
今回の参加者の団員のものと写真を撮って撮っていただきまして・・・、
そしてまた、みんなと握手までしていただきまして・・・、
先例のないサービスをしていただきまして、本当に感謝しています」




小沢の上ずった声とは対照的に、
余裕綽々で、にっこり笑う胡錦涛主席。



それはまるで、
謁見に来た臣下を皇帝が
目を細めて迎え入れる風情だった。

週刊新潮・2007年12月20日号p.26 より抜粋




傲慢と卑屈。

これは碁にはあってはなりません。
 
碁が人生の縮図というならば、実力の差なるがゆえに、
仮に、5子置いたとする・・・

五子を敷き、その五子の置き碁には
うわては伸びやかに、した手は堅固を旨として打ち進めるのが普通だ。

その、堅固風が、置き碁風となり、
自ずと、変な棋風を醸し出している。

下手が堅すぎて、この距たり、と言うか、
交わることなく平行に進むのを潔しとしないか?

置き碁でも、自由奔放に打つ、手だては無いものか?



この置き碁風からの脱却!

具体的には難しいけれど、
これが自分の碁をアウフヘーベン(止揚)させる一つの方法ではないか。

たとえば・・・・の、仮の話である。

石には「こう動く」という自然の動きというものがある。
定石を形成しているような合理的な動き、とでも言いましょうか。


ここで、しばしば見られるものが以下の会話です。

置き碁ならこれで良いでしょう。
「じゃあ、互い先なら?」と問えば、
「そこまで、打たなくて、充分じゃないですか」

出来上がった碁はそれなりに立派で、言い分はありません。
でも、何か物足りない。

このスタンスに、私は耐えられないのです。
この置き碁風から、どう脱却するか!