ドップリ碁に浸かる 高野圭介:囲碁の歩み 75年間 高野圭介 |
|
碁の虫 「高野から碁を取ったら何も無くなる」すなわち 『高野-碁=ゼロ』 と言ったのは学友・故福岡弘造君だ。 弘造君とは小学生から大學までずズーと一緒で、テニスのパートナーだった。 「もし、室内5種目・屋外5種目の総合10種目競技があったら、お前は出ろよ」と彼は言った。 ここに室内とは「碁・将棋・チェス・麻雀・百人一首」で、 屋外とは「テニス・卓球・バトミントン・ソフトボール・野球」のこと。 因みに、チェスは後に昆明でのこと。 たまたま中国の少年宮で、チェスの院生とチェスをした。 何の風の吹き回しか、勝ってしまった。 テニスは前衛であったから、スマッシュは決まったら気分爽快、得意だった。 バトミントンはスマッシュが続く。 |
|
1945年8月 | 龍野中学二年の時、終戦を迎えて剣道からテニスへと転身、 母と小倉百人一首を囲むようになった。と同時に、 叔父・大崎弥吉から碁を手ほどきを受けた。 それからもう75年になる。 |
1948年 | 龍野高校二年の頃、 龍野の当時西播名人・藤井正三氏に五子で指導碁を受けた。 山崎の「有段者会」の末席を汚していた。 |
1951年 | 神戸商大囲碁部を立ち上げ、初代主将となった。 学生時代から紐解いていた「ホトトギス新歳時記」「花鳥諷詠」の 二冊が今も机上にあるが、俳句にも関心があった。 山岳部にも席を置き、富士山・北アルプス縦走など参加。 |
1970年 | 「楠風会」を継承して「守拙会」を創立。 |
1971年 | 後に兵庫県アマ名人となった故多田昭円和尚という良き碁敵を得、 半年間お互い研鑽を重ね、翌年5月、兵庫県西播磨名人になった。 朝日アマ囲碁・赤旗囲碁大会・・・なども制覇し、 一躍、アマ棋会のスターダムにのし上がった。 |
1973年 | 関西棋院宍粟支部を立ち上げ、支部長に推挙され就任。 生涯の囲碁活動が始まった。 数年後、関西棋院普及功労賞が制定されてとき、 橋本宇太郎先生の鶴の一声で、私が功労賞第一号となった。 |
1978年 | 神戸新聞創立八十周年記念行事:訪中囲碁使節団 (団長・三木良一・当時神戸新聞社専務) (最高顧問棋士・橋本宇太郎総帥) の一員に選ばれて、北京から中国を縦断周遊した。 |
1979年 | 渡辺博一氏らと「玄游会」(兵庫県西部)を創立。 |
1980年 | 女性の囲碁「風鈴会」を創立。 また「中国縦貫道八市町対抗戦」「西播磨八市町対抗戦」を創設。 |
1983年 |
「宍粟の碁」(中古本市場:\21780.)を出版した。 著書は他に「すざら碁仙」「醍碁味」「碁スケッチ」など。 |
1900年 | 「碁吉会」創立。 |
1993年 | 「神戸市シルバーカレッジ」発足し,第一期生として入学した。 一年後、「1993年度国際協力コース講義録」を刊行した。 |
1995年 | 「ねんりんピック島根大会・囲碁」で、全国優勝。 優勝カップを当時在学中の「神戸市シルバーカレッジ」に寄贈した。 同時に「飛翔会」を設立。 |
2000年 | 突然、血糖値が150になった。医者に「糖尿病」と宣告されたので、 私は生活習慣を一変し、早寝早起き・断酒運動に徹した。 お陰でけで一病息災の健康体となって、今も20年間続いている。 |
2013年 | ジムで、石飛肇トライアスロン全日本エイジチャンピオンと知己を得た。 彼から「歩くとき、足裏全体をベタッと地面に着けて歩け」と指示された。 それ以来私の身体がどんどん精錬され、健康体に変わっていった。 私を「石飛教室の優等生」と言う。 健康体は頭脳も活性化されてきた。 |
2014年2月 | アマ・プロペア碁大会で、 村川大介十段と組んで、準優勝の座を占めた。 |
2017年 | 「おもしろ詰碁」井原嗣冶著の監修を務めた。 |
2019年 | 第22回中国は紹興名士教授杯囲碁賽にて、 最年長で準優勝の栄冠を得た。 思うに、AI囲碁の研究にも余念が無かったからと思う。 |
2020年秋 | 「チョイスAI定石300」を上梓した。 |
碁は碁知恵 | 「酒は別腸・碁は碁知恵」・・・(鮨は別腹、酒は別腸、碁は別知恵の譬(たと)え 「あの馬鹿が本因坊に先で打ち」などと言われる。 「碁が強いから頭が良い」などは全然当たらない。 棋力の保持は「不断の研究・努力とヨミの集中力」が肝要で、 昨今では「AI囲碁との取り組み」は無視できない!と思う。 昨今はネット碁・将碁友の会で仲間と 月例十番戦で存分に楽しんでいる。 |