高野雅晴 打ち碁・特選十局α

                                        編 高野圭介





雅晴、碁会のエピソード


                                    高野圭介


雅晴はいつも片手に本を持っていた。
碁会の時も欠かさず本が鞄の中に入っていた。

大会の場に足を踏み入れてから、自分が碁を打つ間以外は
ずーっと、本から目を離さなかったし、碁を打つのと、本の切り替えが
ものの見事に、やってのけていた。

勝敗の結果が(ほとんど負けたことが無かった)どうあれ、ケロッとしていた。


碁と学業の両立問題につて言えば、
「囲碁」という学科が別にあっただけで、全く問題なかった。

                            子どもたちの追憶の弁



昭和45年:1970年2月27日
多田昭円(県代表) vs 井目中四目 高野雅晴(小1)

囲碁学習1ヶ月の対局譜

今、振り返って、私の囲碁歴を見ると、中学2年のとき終戦を迎え、文化不毛の日本で、碁どころでは無かった。
将棋と百人一首が最初の取り組みだった。やがて、碁も始まったものだ。そして、碁に子どもを引きずり込んだ。
子どもに手ほどきはしたが、小学生時代は碁に没頭したようなことは無かった。

碁を始めて、1ヶ月後、4回目の井目中四目の棋譜が残っている。

  

師範・多田評「ひらめきあり。非常に良く打たれました。」

小学校担任・間村先生注「褒めてもらっているね。ぼくは頭が良いからすぐ強くなるよ

 昭和51年   1976年
西村 修  vs  5子  高野雅晴(中1〉

 5子で持碁

西村修に5子で持碁としたが、西村の実力は当時も今も、並の5段では5子局では西村に勝てない。 
驚嘆に値する一局である。

小学生6年間は私と折を見て打つ程度であったが、小6年のとき、木下敬章5段に7子局で負け。

 昭和52年  1977年
小林正昌プロ四段 vs 5子 高野雅晴(中2)

姫路・林友会席上

淳心中学中2になって、プロとの接点が急速に増えていった。
姫路には上野眼科先生肝煎りの林友会で、毎回無料で小林先生の指導を受けた。
小林先生は、西村修を育てた師匠でもある。

加えて、玄游会(西兵庫県の高段者グループ)にも顔を出しかけた。もちろん
姫路近辺のトップクラスのメンバーとの指導対局も増えていった。

 昭和51年  1976年  
山下順源プロ四段 vs 5子 高野雅晴

高野宅階上 

雅晴の本領「捨て石・締め付け・トリカケ・召し捕り・・・おおワンラ(完了)」
豪腕炸裂! 山下先生、必死の抵抗も空しく、遂にギブアップ!
 


山下順源プロに7子局を打った後のメモが残っている。(1976年4月4日)

雅晴感想「ついに7子から6子へ。次の譜と前後が逆だが、
あとで、先生に行儀が悪いと言われた通り、だいぶだらけていた。」

また、別の7子局の譜に「勝つチャンスはいくらでもあったはずだが・・・・」とも。

昭和52年  1977年
互先 高野雅晴 vs 先番 金沢東栄

第1回 朝日少年囲碁名人戦



子どもたちの囲碁大会に、朝日新聞が初名乗りを上げた。 第1回 朝日少年囲碁名人戦である。

優勝者は、中学校の部では金沢東栄。小学校では今村俊也。幼稚園児の多賀文吾。
雅晴は準決勝で、金沢東栄君に破れて、結局は三位入賞となった。
なお、当日の付き添い父兄は五十人であった。

 
 
挿話・・・バックギャマンのこと

三人の息子たちは中学1年の夏休みに、マークの居るサンフランシスコに一人旅出だした。

長男の雅永はピンポンしたり碁を打ったり、異国にどっぷり浸かっていたようだ。
三男の雅彰はロスアンジェルスのオリンピックの開会式に連れて行って貰たりした。
次男の雅晴はバックギャマンのプロの場に入り浸り、プロ並みの技術を習得してきた。

雅晴はピカッと光る碁の才能の持ち主とは思っていたが、ゲーム全般の共通点にも通じていた。



打ち込め青春: 全国高校囲碁選手権大会:頭の甲子園  昭和55年:1980年



対戦前夜   
大会下馬評と展開

応援への謝辞 
湧きに湧いた夏  
第1回戦 若林 剛 戦 (九州・臼杵高校)

中押し勝ち

第2回戦  高橋 修 (北海道・稚内高校)

時間切れ勝ち

第3回戦  宮平憲一  (大阪・高津高校)

半目勝ち

第4回戦  及川 洋 (東京・早稲田高校)

中押し負け
ご褒美のイベント
互先 高野雅晴  vs  先番 中国・桃 征

対中国選抜戦 

小学生時代は余り碁の時間は無かったように思う。中学生になって機会が増えた。
山崎守拙会、初心会や姫路の林友会に胸を借り、多くのプロにも指導を受けた。
木下敬章、山下順源、小林正昌、宮本直毅の諸先生である。
また、神戸の西村修、岡本良英の諸兄にも温かい薫陶を受けた。

                          雅晴の言葉 「宍粟の碁」p.505より


昭和54年  1979年
東野弘昭九段 vs  3子 高野雅晴(高2)

白石トン死で幕
 
序盤、中を厚く打ち、途中で巧みに捨て石で締め付け、強烈に眼を取って攻め上げる。・・・雅晴・独特のパターン

滅多にアマにも負けない東野先生もたまげた!

昭和55年  1980年
原田 実 vs 3子 高野雅晴(高3)

豪快な黒の好局 

「この碁は時間切れで終局。黒にあやふげ無しの引き分けとなった。」  評者・西村 修の弁。

 
雅晴はその後、期するところあってか、碁らしい碁を打っていない。
生まれて以来、お兄ちゃんのセコハンで大きくなってきたせいか、すべてが脱兄貴??

京大に進学したとき、金沢東栄の率いる囲碁部に籍を置かず、
オーストリッチ・スキーのジャンプとエッチラオッチラに身を挺した。

ある日のこと、大阪で、家田隆二八段が弁護士と公認会計士のある碁会で、雅晴と打った!
そのように連絡があったぐらい。

煌めく碁の才能は抜きんでていたが、きっと、仕事やらどこかに滲み出ていることだろう。

                                        父・圭介記