中山典之先生の蘊蓄 ー中山典之先生と共に過ごした十二日間ー 高野圭介 それはそれは楽しいチロルの旅だった。 行くまではチロルがどっち向いているのかも分からないが、 チロル・ハットから想像して、アルプスのハイジを連想していた。 愛知地球博のオーストリア館で、どさっとチロルの資料を戴いたが、 百聞は一見に如かずと、予習の難しさに手を焼いたので、今から見直しです。 チロルに入り浸って、山岳地帯の厳しさを思い知った。 チロルには産業がないに等しい。今では山岳という観光資源様々である。 スポーツも山岳バイクとか、自転車レースがテレビをほぼ独占している。 ゴルフ、野球、テニスなどは陰が薄い。当然とは言え、トレッキングはプロの世界だ。 私など、ハイキングの域から出るわけにいかないと、身に沁みて分かった。 この厳しい自然の前に、私などははじき飛ばされてしまうだろう。 このチロルに足を入れ、心を植え付けてしまった中山先生の凄さに感嘆している。 まずは余人には誰も真似が出来ない先生の資質と行動にある。 自由・平等・友愛という三拍子揃った統治する帝王学が身に付いている。 先生は本来の頑強な身体と、健康で、全身精力で漲り、破顔施の徳がある。 常に、皆と一緒にという広い気持ちで、自分の居る位置を確かめておられ、 為政者の品性がある。 それが、世界の人々の心を打って、 中山囲碁国家千人の青い眼の弟子を形成しているのであろう。 私にはそのように感じられるほどに、 その恩恵に浴して、チロルに滞在していた。 毎日が楽しくならない筈がない。 どういう風の吹き回しか、毎日の晩餐を同じテーブルで取ることになった。 ご相伴は中田良知、西村摩耶子という、きっての紳士淑女が加わって、 常に同席で、皆さまの話題の豊富さも事欠かない。 中山先生のお話に、心を打つものが積もってくる毎日のメニュー。 思い出すままに、記しました。 |
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@ 飛玉一声 |
私宅には「敲玉」という本因坊・関山利仙の揮毫になる額が 三木正様の肝煎りでいただいているが、 先生のところにも「飛玉一声」なる同じく 本因坊・関山利仙の揮毫になる額があると聞いた。 |
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A 家貧にして 孝子出ず |
朝日新聞とか、日本棋院の編集部が国家の国語審議会の変な差し金を墨守し、 「家貧にして孝子出づ」を「家貧にして孝子出ず」として譲らないお話。 |
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B 小諸なる 古城の ほとり |
到着の翌日、まだ時差ボケの中をちょっとしたハイキングに出掛けた。 誰ともなく「小諸なる古城の・・・」と、千曲川旅情の歌を口ずさみ出した。 あるところで、声が小さくなっていく。 「浅くのみ春は霞みて、麦の色・・・」ときた頃、もう途絶えかけた。 先生は「難しくなったら、私の出番だぞ・・・」と言って、 「わづかに青し 旅人の・・・」と続けられる。 先生の記憶は正確そのものである。 |
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C 記録係 |
棋院の棋譜係はたいへんな仕事である。 それが、気むずかしやで、長考派の大御所の碁は誰も勤まらない。 だから、坂田、梶原、秀行・・と、聞いただけでも後ずさりしそうな人達から、 ご指名がかかるのは中山先生ただ一人であった。 有名な「蛤は重かった」という梶原の名言は、先生がその場に居合わせていて、 観戦記者が書き落としたのを、先生が別の場で書いて世に出した。 それがきっかけで、先生自身が文士登場となった。 |
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D 風呂に 入らない |
アドラー・ホテルの風呂は混浴である。 私は40℃ぬるま湯が凄く身体に合って、毎日愛用した。 そのために、思いがけない椿事に会ったが、それも楽しい思い出で、 先生は水着を持ってこなかったから、と、いって、 風呂は敬遠されていた。 |
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E 歌の素 |
先生の「いろは歌」は前代未聞の快挙である。 先生が「歌の素」という小函を肌に離さず持参され、 取り組んでおられる姿を知った。 これだけでも素晴らしいことだった。 私の囲碁格言カルタ創作に関しても、徹底してご助言を戴いた。 有り難く感謝しています。 |
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F 啼兎 |
みんなで2500メートルの高さにある 「乙女の池」へ出掛けたときのことだ。 約束の時間が来ても、単独行で出掛けた中山先生が帰ってこない。 何もないだろうが、何かあったのかも知れない。不安が過ぎる。 手分けして、探した。いよいよ見つからないときは、 救助隊の出動さへ言い出した。 そのとき、飄々と無事ご帰還の先生の弁である。 「いやあ、ちょっと昼寝してまして、ふと、岩の間から見ましたら、 啼兎が『何ものじゃ』と、じーとこちらを向いている。 『いよう、ナキウサギさん guten tag』.と、 言ってやったら、何かしら言いながら、 そのまままん丸いお目々で見ているじゃないですか。 あちらさんも、珍しかったのかもね」 これで、中山先生失踪劇は幕
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G 伊井国雄 |
チロルからの帰りに、静岡へ寄る、と言ったら、 それは「清水さんですか」と聞かれて、びっくりした。 「勇さんです」と言ったら、「馬走の・・・」とも。 ついでに、「藤枝から女性二人が一緒に来て、会います」と付け加えたとき、 隣にいた塩沢孝子さんが「大石さん?」と言うので、私が 「静子さん」と答えて、又びっくり。 先生が「静岡と言えば、あの方は・・・」と、言われるので、 すぐ、ピンと来ました。 「九段が多すぎるぞ」と、文藝春秋1990年9月号に発表し、 段問題に警鐘を鳴らした方。 私はその名前が喉もとまで出てきているのに、ダメでした。 その翌日、先生が「分かりましたよ。伊井国雄さん。」とおっしゃって、 「伊井さんは癌で、手術をされたとか聞いていますが」とも。 「ああ、そうでしたか、残念ですね。伊井さんは但馬の方ですよ」 |