故 吉野従生語録 吉野生壮(実弟)のブログ「惜別」より 2009年10月7日 高野圭介 |
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吉野さんが遂に逝かれた。私はちょうど運悪く、韓国へ囲碁ツアーに出掛けていまして、 9月30日、帰国後、訃報に接しました。 ここに、吉野さんとご親交を戴いた当時のこと。 闘病最中の吉野さんの素晴らしい生きざまなどを記録に留めておきたいと思います。 |
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よく学び よく遊び |
吉野さんとは碁吉会を通じて、親しくよく学び、よく遊びました。 ここ10年程は親交を得て、親しく遊ぶ仲間でした。 とりわけ、 吉野さんの東洋紡の別荘は六甲山上も宝塚も、 折に触れ、利用させていただきました。 |
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海外にも | 海外にもよく遊びました。ドイツ・東欧の周遊ツアーを皮切りに、 碁を打ってのツアーも満喫しました。 碁吉会で毎年のように、バルト三国からロシア。 トルコ、イタリアからチュニジアにも行きました。
カリブ海クルージングや中国の名人教授杯の碁会には、 私と二人では、毎年のように行きました。
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ゴルフ | ゴルフは吉野さんが碁吉会のドンで、 吉野さんの根拠地・西宮高原C.C中心に、 近隣のゴルフ場へもよく連れて行って貰いました。 |
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東大時代 | 吉野さんの東大時代の親友・橋本誠介さんは密かに言いました。 「吉野さんは東大駒場寮の寮長だったんです。 寮長は凄い権力があったんですよ。」と。 |
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折々のとき | 短かった癌とのすざまじい闘病の中で、 「力強く生き抜こう」との意気に満ちて、 その言葉は胸を打つものがありました。 |
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9月10日 電話で・・・ |
朝方、電話での会話です。 「高野さん、長い間お世話になりました。 もう、社会復帰は不可能と言うことが分かりました。 ほんとうに碁やらゴルフやら楽しくお連れにしていただいて、 お礼を言います。」 (そんなん、抗ガン剤は思わんとこから効いてくるで・・・と言ったら) 「おおきに、そやけどな、まあ、もう死ぬというこっちゃ。」 |
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9月16日 病床の様子 |
西宮中央病院へ、大勢で見舞いに行きました。 酸素吸入中の吉野さんは 皆さまのことは一人一人よく分かっているらしいが、余り言葉に出ないようです。 「頭が丸くなって、武宮に似てきた・・・」と、 柔らかくて温かい手を握手したり、足をさすったりして励ましました。 |
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9月24日 一命を取り止めた! 「もう大丈夫だ」 意欲いっぱい 悦びの言葉 |
「お陰様で一命を取り止めたようです。もう大丈夫です。」 と精気が戻ってきた感じ。 気のせいか、辺りも明るく感じました。 |
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・・・・肺ガンと闘い、白と戦い・・・ 2009年の2月から肺ガンとの戦いが始まった。本局は闘病中の一局。 「頭は放射能によるアルツハイマーで、 碁のことも忘れてしまったかも知れませんが、 快復して、新たに碁の勉強を始めたら、 どこまで碁が回復してくるか、実験台になります。 これが楽しみです。」 その言葉に、感動したものです。 |
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・・・宮垣さんが「碁は辛抱や!と言って、 高野さんは又強うなりはったで」と言ったら・・・ 「碁は欲を出したらあかん。欲ボケが危ないんや。 碁に欲は禁物やで。」 |
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「この看護婦さんは私の命です。(と、手を握る)」 私が「よろしく頼みまっせ」とそのナースの手を握ったら、 「ああ、高野さん、 このお嬢さんと仲良くして、私から取ってしもたらあかん! 高野さんも好きやでなぁ。」 |
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「私は今、時間の経過の様子がさっぱり分かりません。 ただ、ほんとうに楽しかった自分の人生を あれこれと思い出しては楽しんでいます。」 |
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9月26日 以降のこと |
私は韓国へ囲碁対局に旅立ち。 27日 逝去されました。 29日 葬儀が執り行われました。 30日 私は帰国。 |