高野雅永  打ち碁・特選十局

                                    編 高野圭介



 雅永、碁会のエピソード


                                    高野圭介


いつだったか、中学生の頃のことである。

ある日、地元の碁会所「太陽」で碁会があって、雅永が参加した。
英保さんという方も、その日は、神戸から帰郷されて参加された。

1回戦で、雅永と英保さんが当たった。
雅永が勝って、最後に決勝戦となった。
英保さんも後、勝ち進んで又対戦することとなっていた。

英保さん「この子は何段や?」
「5級やで」
「え!わしは4段やで・・先で打ったンや。」
「え?この子、5段と違うの?」
「何や!そしたら、7子の手合いや。そりゃあかんわ」

受付で、英保さんの段と級と間違って、級で出ていたのである。

碁会所「太陽」では、この話でしばらく持ちきりだった。


 昭和45年   1970年
白 高野雅永(小3) vs 2子 高野雅晴(小1)

 囲碁学習6ヶ月の対局譜
昭和50年   1975年
西村 修  vs  9子  高野雅永(中2〉

9子のしごきをパス 

今、振り返って、私の囲碁歴を見ると、中学2年のとき終戦を迎え、文化不毛の日本で、碁どころでは無かった。
将棋と百人一首が最初の取り組みだった。やがて、碁も始まったものだ。そして、碁に子どもを引きずり込んだ。
子どもに手ほどきはしたが、小学生時代は碁に没頭したようなことは無かった。

三人の子どもたちは中学一,二年の頃、強いんだか,弱いんだか分からないまま過ぎたように思う。

特に、西村修に井目で勝ったが、西村の実力は当時も今も、並の5段は5子では西村に勝てない。
また、県名人・多田昭円は秀栄の碁が好きで、如何にして戦わず勝つか!に専念していた。

この両者の違いが中学生の雅永の碁歴にトップアマに「井目と先」という妙な棋譜が残ったが、

分からぬでもない。思うに、
一局一局毎に強くなって、中学2年当時は4~5段ぐらいあったのでは、そして
強い相手に当たったら、どのようにでも強く打てる気迫とヨミが培われていたとも。

                                    父・圭介 記


 昭和50年    1975年 
多田昭円  vs  先   高野雅永(中2〉

 先で、県名人に勝つ
 昭和52年   1977年
打ち込め青春

互先  高野雅永 vs 先番 石田智章

高校選手権・兵庫県決勝戦

 


昭和58年   1983年
互先 和田幸樹 vs 先番 高野雅永

 全日本学生3位決定戦
 昭和58年   1983年  
前田良二 初段 vs  先  高野雅永

 囲碁雑誌「囲碁」企画対局



昭和59年   1984年  
橋本宇太郎総帥 vs  3子 高野雅永

 囲碁雑誌「月刊碁学」企画 
昭和63年   1988年
後藤俊午 六段 vs  先  高野雅永

 お好み指導碁

小学生時代は余り碁の時間は無かったように思う。中学生になって機会が増えた。
山崎守拙会、初心会や姫路の林友会に胸を借り、多くのプロにも指導を受けた。
木下敬章、山下順源、小林正昌、宮本直毅の諸先生である。
また、神戸の西村修、岡本良英の諸兄にも温かい薫陶を受けた。

                          弟・雅晴の言葉 「宍粟の碁」p.505より


碁と学業の両立問題につて言えば、
「囲碁」という学科が別にあっただけで、全く問題なかった。

                            子どもたちの追憶の弁

平成25年   2013年


余 昌民(中国) vs 先番 高野雅永(日本)

 第15回・景徳鎮中外
名士教授囲碁大会
平成25年   2013年
王 亦青   vs   高野雅永

北京・藤沢秀行記念室