私の囲碁デビューからの碁歴 囲碁棋壇へのステップ 1969年デビューから1970年代の足跡 高野圭介 |
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1968年の 多田昭円碁友 |
1968年(昭和44年)10月、私は近隣・新宮町の多田昭円碁友と知り合った。 多田昭円は新宮の円休寺の和尚さんである。 盤上のロマンに研鑽を重ね、競い合うた相棒。 それを碁敵というならば、多田さんこそ終生の碁敵だった。 だったというのは、彼が「中の碁」を薬籠中のものとして、 兵庫県アマ名人に就任後、病を得て夭折された。 多田さんは愉快な方であった。 碁会ともなれば、密かに大きな風呂敷を携えておられた。 言わすと知れた賞品の包装用である。 |
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気がついたら優勝 |
多田さんには握りから打ち始めた。 三盤手直りで何回もも3子まで打ちこまれるのだが, 4子を敷くまでには至らず、 明けの3月には一応互先になっていた。 でも、一日の長は縮まることは無かった。 思うに、この数ヶ月は、 棋書の中にどっぷり浸かって明け暮れしていたようなもので、 1969年5月の神戸新聞・名人戦に出場し、難解な変化の時、 本が眼の前に現れ、ペラペラと該当の変化が提示されたという 珍現象が生じたことがある。 この現象は一回限りで、もう無いが、その時の基礎知識が今なお生きている。 結果として、 1969年の名人戦A級に無我夢中で対戦して、気がついたら優勝していた。 これで勇躍、 西播磨アマ囲碁棋壇のトップグループの末席を汚すことになった。 |
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1975年には 最多の7局 |
プロの指導碁は志智嘉九郎さんに紹介された木下敬章五段が最初の師範で、 最も回数は多かった。次いで、山下順源プロの指導碁である。 さて、指導碁を調べてみると、1975年には最多の7局打っている。 一番碁が面白かった頃なのだろう。 但し、このデーターがすべてということは無いかとは思うが |
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gorsの虜 | その後は碁が私を虜にしてしまった。 今では、gors(碁が好きになって困る、というウィルス)が体内に自生し始め、 メールアドレスも書き換えられてしまった。
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互先 高野圭介 vs 先番 多田昭円 先番 5目半コミ出し 1983年5月16日 於 播磨新宮町・東山碁会所 151手以下略 白半目勝ち 「宍粟の碁」p.458より |